三沢村(読み)みさわむら

日本歴史地名大系 「三沢村」の解説

三沢村
みさわむら

[現在地名]白石市大鷹沢三沢おおたかさわみさわ旭町あさひまち一―五丁目

東は伊具いぐ大蔵おおくら(現丸森町)、西は中目なかのめ村・坂谷さかや村、南は斎川さいかわ村、北は大町おおまち村に接する。耕地は山間に散在し、村の西南部を斎川および谷津やつ川が北流しその流域にわずかな沖積耕土を作る。白石―丸森まるもり街道が西北から東南に通り、相馬そうま(現福島県相馬市)梁川やながわ(現福島県伊達郡梁川町)方面へ出る古くからの交通路であった。大町寄りの地字出羽津堂ではつどう石堂いしどうからは縄文中期の土器が出土した。

正平七年(一三五二)三月一八日の相馬親胤宛吉良貞家軍勢催促状(相馬文書)にみえる「三沢城」の所在地。「伊達正統世次考」明応四年(一四九五)八月三日条によると、大町三河守の戦功に対し「刈田郡見沢藤田方知行所」などが替地として与えられた。大町氏は長井ながい小松こまつ(現山形県東置賜郡川西町)、のち同庄弓田郡に住し、伊達家九代政宗と一一代持宗の家老職を勤めている(伊達世臣家譜)。藤田氏は伊達だて藤田ふじた(現国見町)に住した伊達家譜代の家臣。「伊達世臣家譜」では大町氏が当地に来たのは天文年中(一五三二―五五)頼康の代とし、大町館に住したとある。天文七年の段銭古帳に「ふちたかた 三十三〆文 ミさハ」「大まちかた 三十仁〆仁百五十文 ミさハ」とあり、段銭高合計は古帳記載の二九郷中最高。


三沢村
みさわむら

[現在地名]下部町三沢

上田原かみたんばら村の北、西八代台地の南西部を西流する三沢川流域の沖積地と緩傾斜地に立地する。村名は大磯おおいそ(車田川ともいい、現在の三沢川上流域)樋田といだ(久保川)鍛冶屋かじや川の三渓流が地内で合流するからという(甲斐国志)。枝郷に楠田くすだ(くすんだ)大石おおいし貝持かいもち(開持)西にしくぼ奥杯おくなど蕨平わらびだいら塩貝しおがい大草おおくさ与垂沢よだれさわ柿島かきしま宮平みやのだいら(宮ノ平)嬲沢なぶりさわがある(同書)。縄文時代のみやまえ遺跡がある。天文二二年(一五五三)の穴山信友判物(南松院文書)に「三沢瑞応寺領」、天正一八年(一五九〇)一一月五日の加藤清政証文(同文書)に「河東三沢之郷随王ママ寺領」とみえ、三沢に所在した瑞応ずいおう(現廃寺)の寺領について年貢以外の諸役・懸銭などが免除されている。


三沢村
みつさわむら

[現在地名]小郡市三沢・三国みくにおか一丁目・美鈴みすずおか一―五丁目・のぞみがおか一―六丁目

筑後国の最北西端に位置し、東は横隈よこぐま村・力武りきたけ村、南は小郡町・大保おおほ村に接する。三国丘陵を中心に縄文・弥生・古墳各時代の複合遺跡が多数分布。勝負坂しようぶざかに文化五年(一八〇八)銘の筑前・筑後・肥前三国境石(円柱)が建つ。室町初期と推定される菊池殿宛道永書状(北野天満宮文書/南北朝遺文(九州編)六)に筑前大山だいせん(現大宰府市)領として「三沢、橘田、宮田、溝口等」がみえる。文明一一年(一四七九)三沢八〇町が筑紫孫次郎(満門)に安堵されているが(同年一一月一九日「少弐政資安堵状案」筑紫古文書/大宰府・太宰府天満宮史料一三)、その父良喜(「筑紫系図」では教門)の代に「安芸陣番わけ分」として大隅守より与えられたらしい。


三沢村
みさわむら

[現在地名]皆野町三沢

下田野しもたの村の南東、大霧おおぎり山の北西麓に位置する。東は峰を境に皆谷かいや村・坂本さかもと村・大内沢おおうちざわ(以上、現東秩父村)、西はみの山を境に黒谷くろや(現秩父市)・皆野村、北は風布ふうつぷ(現寄居町)など。村内を荒川の支流三沢川が流れ、村の北、風布村境に釜伏かまふせ峠、南東の坂本村境には粥新田かゆにた峠がある。釜伏峠越の道は熊谷、粥新田峠越の道(秩父川越道)は川越に通じ、両道の交わる交通の要地であった。村内はかみ郷・中郷・下郷に分れ、名主も三名おり、また、上郷に牛沢、中郷に宮沢、下郷に茗荷沢と三つの大きな沢があって、このことが村名の由来ともいわれる(風土記稿)

正平七年(一三五二)一月二二日の足利尊氏袖判下文(安保文書)によると「秩父郡三沢村」などが勲功の賞として安保泰規に与えられている。


三沢村
みさわむら

[現在地名]三沢市三沢 浜三沢はまみさわ

三沢川に沿い、東は太平洋岸である。西に岡三沢おかみさわ村がある。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に百石ももいし(現上北郡百石町)の支村として三沢とみえ、家数一九とある。享和三年(一八〇三)の仮名付帳には家数一八とある。五戸ごのへ通に属する。藩政期末の「北奥路程記」では浜三沢と岡三沢とに分けているが、天ヶ森あまがもり村の南の「川海の落口より木崎野辺海岸三沢村の六川目迄五千九百六十間の間」は三沢村とも述べている。


三沢村
みさわむら

[現在地名]清水市宮加三みやかみ

加茂かも村の北西にあり、南は駒越こまごえ村。久能道が通る。康暦二年(一三八〇)五月一六日の今川家奉行人連署奉書(駿河伊達文書)三沢郷がみえ、駿河守護今川泰範が入江いりえ庄三沢郷内の伊達牛王丸(盛宗、伊達景宗の子)知行分の年貢を矢部八郎左衛門が抑留することを止め、牛王丸に交付している。三沢の地はもと入江舟越一族の三沢小次郎の本貫の地と推測されるが(駿河志料)、観応の擾乱の際、足利尊氏方の将今川範氏に属して活躍した伊達景宗が、勲功の賞として宛行われた小次郎跡に含まれていたとみられる(正平六年一二月一二日「将軍足利尊氏下文」駿河伊達文書)


三沢村
みさわむら

[現在地名]日野市三沢一―四丁目・三沢など

百草もぐさ村の北、落川おちかわ村の西にある村。正和元年(一三一二)八月一八日の高麗忠綱譲状(第二回西武古書大即売展目録)木切沢ききりざわ山の東の境としてみえる「八幡のお前」は、当地の八幡社に比定される。永禄一〇年(一五六七)一〇月一八日の高幡不動堂座敷次第覚写(史籍雑纂)によると、高幡たかはた不動(金剛寺)の正月仏事に「みさはの村」在住の高幡高麗氏一族の高麗近江守が参列している。しかしこれ以前に小田原北条氏が当地方に進出、高幡高麗一族は没落していたと考えられ、この覚は天文(一五三二―五五)頃を回想して記したものと推定されている。


三沢村
みさわむら

[現在地名]袋井市宇刈うがり

周知すち郡に所属。宇刈川上流の谷間に位置し、南は一色いつしき村。村名は三渓の水が流れるからという(掛川誌稿)。天正一七年(一五八九)七月七日の徳川家七ヵ条定書写(御庫本古文書纂)によれば、徳川家は「三沢」に七ヵ条定書を下している。慶長九年(一六〇四)伊奈忠次の検地があり、宇苅三沢村御検地水帳(静岡大学人文学部蔵)によれば、田畑屋敷四一町一反余。江戸時代の領主の変遷は一色村に同じ。正保郷帳に三沢村とみえ、田方三七六石余・畑方五五石余、ほかに沙汰さた明神社(現宇刈神社)領五石・永沢寺(現廃寺)領四石。元禄郷帳では高四八九石余。天保郷帳では高五〇一石余。「掛川誌稿」によれば家数五八・人数二四五。


三沢村
みさわむら

[現在地名]岡谷市川岸かわぎし 三沢

塩嶺えんれい山地の南端が北を限り、南は天竜川を隔てて橋原はしばら村に対し、東は岡谷村、西は新倉あらくら村と境を接している。村の中央を伊那道が天竜川に並行している。村名の初見は天正七年(一五七九)の下諏訪春宮造宮帳に「宮大工(烏)帽子・水干造宮 岡屋 三沢 新倉 辰野」とある。

村の北端に近く、伊那道沿いに荒神塚こうじんづか古墳がある。横穴式石室をもつ円墳で、築造は七世紀前半あるいは八世紀初めといわれる。この墳上に藤島ふじしま神社がある。永禄―天正(一五五八―九二)の頃、三沢・新倉の地頭職三沢対馬守の拠った高尾たかお城は村の北西部にある。慶長六年(一六〇一)幕府の勘定奉行大久保長安が木曾の森林資源の開発に着目し、木曾の桜沢さくらざわから、牛首うしくび(上伊那郡と塩尻市の境)小野おの(岡谷市・塩尻市・上伊那郡の境)を通って諏訪の下諏訪宿(中山道と甲州道中の分岐点)へ通ずる道を開いた(大久保十兵衛書状)


三沢村
みさわむら

[現在地名]川上町三沢

北流する三沢川の谷筋に集落が散在する村で、東は水名すいみよう(現小田郡美星町)、西は地頭じとう村・二箇にか村、北は領家りようけ村、南は小田おだ郡境。寛永備中国絵図によると高二二五石余で、山崎家治先知。寛永二一年(一六四四)の家数人数牛馬改帳(山崎文書)では家数八四、男一二九・女一二三、馬六・牛一七。同帳には各戸別に持高・家族数・住宅建棟の種別および規模が詳細に記され、近世初期の村落構造を把握するうえで注目される。正保郷帳では幕府領、枝村は長通・比井谷ひいだに竹迫たけざこ笹丸ささんまるの四村が載る。


三沢村
みさわむら

[現在地名]米沢市三沢・通町とおりまち一―三丁目・東大通ひがしおおどおり一丁目・万世町立沢ばんせいちようたつざわ

関根せきね村の東に位置し、羽黒はぐろ川が山地から平地に出る一帯の山麓と扇状地上に立地。近世には山上やまかみ村に含まれていた。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録によると、冨沢主計之助・鹿股筑前・小簗川尾張守に山上のうち「なかしま」が分与されている。当地に小字中島なかしまがある。上杉領村目録では山上村のうち東山上に当村小字名しも原がみえる。


三沢村
みさわむら

[現在地名]いわき市常磐三沢町じようばんみさわまち

矢田やだ川中流右岸にあり、西は水野谷みずのや村、北は松久須根まつくすね村、東は下矢田村、南は金成かなり村。享徳三年(一四五四)七月一一日の道金譲状(岡本元朝家蔵文書)によれば、金成村の四至のうちに「北ハみさはこもたをかきつて」と米田こもだ村とともにみえる。磐前いわさき郡に属した。近世は磐城平藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録にみさハ村とあり、高一四九石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では高一六九石余。正保郷帳では田方一四六石余・畑方二三石余。


三沢村
みさわむら

[現在地名]いわき市三沢町

さめ川支流の四時しとき川右岸にあり、西は小川おがわ村、北は沼部ぬまべ村、南は白米しろよね村。菊多きくた郡に属する。近世の領主の変遷は磐城平藩領から元和八年(一六二二)窪田藩領、貞享元年(一六八四)以降幕府領だが、幕末には磐城平藩領となっている(旧高旧領取調帳)。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では「みさハ村」とあり、高二五四石余。


三沢村
みさわむら

[現在地名]菊川町三沢

東横地ひがしよこじ村の南、牛淵うしぶち川左岸に位置し、東部には牧之原まきのはら台地の支脈が走る。天正元年(一五七三)一二月一五日の武田家朱印状写(三沢文書)によると、恩賞として三沢助次郎に「遠州三沢之郷九拾貫文」を与えている。当地である可能性が高いが、周智しゆうち郡三沢村(現袋井市)にあたる可能性も残る。寛永二一年(一六四四)には高三八三石余で幕府領であったが、正保二年(一六四五)横須賀藩領となる(掛川預一万石郷村覚)。正保郷帳では田方三〇四石余・畑方七九石余、「芝山」「新田有」の注記がある。


三沢村
みつざわむら

[現在地名]富士市三ッ沢・富士見台ふじみだい

今泉いまいずみ村の東、愛鷹あしたか山の西麓に位置する。永禄四年(一五六一)八月二五日の今川氏真朱印状(井出文書)にみえる「富士山造」四〇人の代表者の一人「三沢 左衛門四郎」は当地のものとみられるが、現芝川しばかわ大鹿窪おおしかくぼの字三沢みさわに比定する見解もある。寛永九年(一六三二)幕府領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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