朝日日本歴史人物事典 「三浦光村」の解説
三浦光村
生年:元久2(1205)
鎌倉中期の武将。通称駿河三郎。義村の3男で,母は土肥遠平の娘。幼名駒若丸。幼少のころは公暁の門弟。検非違使を経て叙爵。その後壱岐守・河内守・能登守などを歴任し,正五位下に至る。鎌倉幕府将軍藤原頼経が幼少のころから昵懇の間柄で,近習番を勤める。寛元2(1244)年評定衆。またこのころ讃岐国守護。同4年頼経が鎌倉を追放されたときには,供奉人として上洛し別れを惜しみ,いま一度鎌倉に迎えたいと人々に語ったという。この事件を契機に北条氏と対立を深めて,翌年の宝治の戦に敗れて一族と共に自殺。「万事骨張の気あり」(『吾妻鏡』)と評される。
(佐々木文昭)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報