三浦光村(読み)みうら・みつむら

朝日日本歴史人物事典 「三浦光村」の解説

三浦光村

没年:宝治1.6.5(1247.7.8)
生年:元久2(1205)
鎌倉中期の武将通称駿河三郎。義村の3男で,母は土肥遠平の娘。幼名駒若丸。幼少のころは公暁の門弟検非違使を経て叙爵。その後壱岐守・河内守・能登守などを歴任し,正五位下に至る。鎌倉幕府将軍藤原頼経が幼少のころから昵懇間柄で,近習番を勤める。寛元2(1244)年評定衆。またこのころ讃岐守護。同4年頼経が鎌倉を追放されたときには,供奉人として上洛し別れを惜しみ,いま一度鎌倉に迎えたいと人々に語ったという。この事件を契機に北条氏と対立を深めて,翌年の宝治の戦に敗れて一族と共に自殺。「万事骨張の気あり」(『吾妻鏡』)と評される。

(佐々木文昭)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三浦光村」の解説

三浦光村 みうら-みつむら

1205-1247 鎌倉時代の武将。
元久2年生まれ。三浦義村の3男。讃岐(さぬき)守護,評定衆。4代将軍九条頼経に近侍し,反執権派となる。寛元4年(1246)宮騒動で京都に追われた頼経に随行,将軍への復位を画策した。三浦氏の乱で北条時頼に敗れ,宝治(ほうじ)元年6月5日兄三浦泰村とともに鎌倉法華堂で自害。43歳。通称は駿河三郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の三浦光村の言及

【宝治合戦】より

…1246年(寛元4)北条氏の支流名越光時は,千葉秀胤らを誘い,頼経を擁して北条時頼を除き執権の地位を奪おうと図ったが,事前に発覚して追放され,頼経は京都に送還された。三浦光村も頼経に接近してこの事件に関係したらしく,頼経を京都まで護送したのち,再び頼経を鎌倉に迎える考えをもっていたといわれる。前将軍頼経に接近して反北条氏的な動きを示した三浦氏に対して警戒を強めた執権時頼は,翌年外戚安達景盛らと謀って三浦氏を挑発し,鎌倉において光村の兄泰村以下三浦氏一族を滅ぼした。…

※「三浦光村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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