朝日日本歴史人物事典 「三浦義同」の解説
三浦義同
生年:宝徳3?(1451)
室町・戦国時代の武将。上杉高救と大森氏頼(寄栖庵)の娘の子で,相模新井城(神奈川県三浦市)城主三浦時高の養子となる。三浦介,陸奥守。養父時高に実子高教が出生したのち不和となり,三浦を逃れて足柄下郡の総世寺に入り,剃髪して道寸と称したと伝える。しかし明応3(1494)年9月,家臣らの支持と母方大森氏の支援により,時高・高教父子を新井城で討ち取り,三浦氏を継いで同城を居城とした。その後,北条早雲の相模侵攻を阻止するため岡崎城を整備してここに移り,新井城には子義意を置いた。早雲の本格的な相模征服の動きは永正7(1510)年ごろから始まり,同9年8月,義同は岡崎城でその猛攻をよく防いだものの敗れ,住吉城に退く。翌年1月の鎌倉合戦と呼ばれる反撃作戦でも敗北し,新井城に退却することを余儀なくされた。その後は同城に立てこもったままであったとみられる。同13年半ば,早雲・氏綱父子に新井城を攻められた際,部将の大森越後守らは義同に,義意の岳父に当たる上総真理谷の武田信勝を頼って退却し再起を図るよう勧めたが,聞き入れなかったという。7月11日になって決戦を挑み,義同,義意共に討死して三浦氏は滅亡した。相模守護上杉朝興に協力し,早雲の相模支配に最後まで抵抗した武将。
(佐脇栄智)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報