関東の戦国大名、北条氏(後(ご)北条氏)初代。伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)ともいう。入道して早雲庵宗瑞(あんそうずい)と号す。一介の素浪人説が流布し、美濃(みの)の斎藤道三(どうさん)と並んで、下剋上(げこくじょう)の時代を代表する人物とされるが、室町幕府政所(まんどころ)執事伊勢氏の一族であることはほぼ確実である。1483年(文明15)幕府申次衆(もうしつぎしゅう)となった伊勢新九郎盛時をその前身とみる有力な説があり、単なる素浪人ではない。初め足利義視(あしかがよしみ)に仕えて67年(応仁1)の伊勢下向に従ったが、妹が今川義忠(よしただ)の室となっていた縁を頼って駿河(するが)に下る。76年義忠戦死後の家督争いを調停して、妹北川殿の生んだ竜王丸(氏親(うじちか))をたて、その功によって富士下方12郷(静岡県富士市)を与えられ興国寺(こうこくじ)城(沼津市)に入る。当時関東では古河公方(こがくぼう)の力が衰え、山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)両上杉氏の争いを軸に諸勢力の分裂と抗争が相次いでいた。早雲はすでに伊豆の土豪らとよしみを通じていて、そうした状況を把握しており、まず伊豆に討って出て関東侵出の足掛りをつくろうとした。
1491年(延徳3)堀越(ほりこし)公方足利茶々丸(ちゃちゃまる)を討って韮山(にらやま)城(静岡県伊豆の国市)に移り自立、伊豆国を制圧した。ついで95年(明応4)扇谷上杉氏の重臣大森藤頼(ふじより)の小田原城(神奈川県小田原市)を攻略して相模(さがみ)に進んだ。『北条記』によれば、早雲はあるとき、ねずみが2本の大杉を食い倒してのち虎(とら)になった夢をみ、ねずみを子(ね)年生まれの早雲に、2本の大杉を山内と扇谷の両上杉氏になぞらえて、めでたい夢と喜んだという。早雲は両上杉氏、古河公方、武田氏などと、相模、武蔵(むさし)、甲斐(かい)に戦い、手痛い敗北も経験しながら東に向かう。1512年(永正9)相模守護家の三浦氏を岡崎城(神奈川県平塚市)に攻めてこれを追い、鎌倉に入った。鎌倉の北西に玉縄(たまなわ)城を築いて三浦、江戸、さらには関東制圧の拠点とし、16年新井(あらい)城(同三浦市)に三浦氏を滅ぼし、相模一国を従えた。
早雲は太田道灌(どうかん)と同じ年に生まれたが、30年余りも長生きして北条氏発展の基礎をつくり、永正(えいしょう)16年に88歳で死去、箱根湯本の早雲寺に葬られた。「早雲寺殿廿一箇条(にじゅういっかじょう)」はその生涯の生活信条を記した早雲の家訓といわれている。仏神を信じよ、早寝早起きをせよ、すこしの隙にも書を読むようになど、基本的な心得が細かに述べられている。早雲寺にある画像は経略に優れた戦国武将の風貌(ふうぼう)をよく伝えている。
[池上裕子]
『杉山博著『北条早雲』(1976・名著出版)』
戦国時代の武将。後北条氏初代。早雲は庵号で,また彼は北条を称したことはなく,一般にいいふるされている呼称は俗称。正しくは伊勢新九郎で,入道して早雲庵宗瑞あるいは宗瑞とみずから記している。実名は長氏とされ,また氏茂などを伝えているが,いずれも確証はない。生国も伊勢,備中,京都などの諸説があるが,京都の伊勢氏とみるのが最も適切であろう。彼の駿河下向は1469年(文明1)とみられ,駿河守護今川義忠の室であった妹をたよって今川氏に身を寄せ,石脇城を居城としたと推測される。76年の義忠戦没後の今川家内紛では,竜王丸(氏親)支持の側に立ったが,このとき範満支援のため扇谷上杉定正から派遣されてきた太田道灌と出会い,両者の調停によって内紛は一応収拾され,これより彼は歴史に登場することになる。早雲,道灌ともに45歳であった。道灌が謀殺された翌87年(長享1),早雲は範満を駿府の館に攻めて自害させ,竜王丸を駿府に移し名実ともに今川家の家督とした。この功績により,駿河の富士下方12郷を与えられ,興国寺城主となる。91年(延徳3)堀越御所足利政知没後の紛糾した伊豆に攻め入り,政知の子茶々丸を討って平定し,韮山に城を築いて居城とし,伊豆の経営に当たった。95年(明応4)9月相模の小田原城を攻め,大森藤頼を追ってこれを奪い,関東進出の第一歩をしるした。この早雲の伊豆,相模への進出は,扇谷上杉定正や山内上杉顕定を利用しての行動とみられるが,小田原城攻略の翌年,早雲は相模で顕定から大反撃されて,弟の弥次郎を失っている。
1504年(永正1)早雲は今川氏親とともに,扇谷上杉朝良を助けて顕定と武蔵の立川原で戦い勝利をおさめた。同年京都の医者陳定治を小田原に招いて透頂香(外郎(ういろう))の製造販売を行わせるなど,城下の整備を図っている。06年にはすでに検地の実施と新基準の貫高の採用が確認され,新しい領国支配体制の基礎固めを行っている。06年と08年の2回にわたり,氏親の援軍として三河に出陣したが,10年ごろからは相模の征服を開始し,12年には岡崎城に三浦義同(よしあつ)を攻めて住吉城に敗走させ,その8月13日に鎌倉へ入った。彼は〈枯るる樹にまた花の木を植ゑそへてもとの都になしてこそみめ〉と詠じたと伝えられ,荒廃した鎌倉の再興を誓ったことが知られる。同じ12年玉縄城を築き,翌13年には義同の反撃を退けて新井城に追い込め,16年の7月ついに義同・義意父子を討って三浦氏を滅亡させ,相模を征服した。18年に家督を氏綱に譲ったとみられる。翌年8月15日,伊豆の韮山城で没し,相模箱根の早雲寺に葬られる。法名は早雲寺殿天岳宗瑞。家訓といわれるものに《早雲寺殿廿一箇条》があり,家法《伊勢宗瑞十七箇条》の存在が指摘されている。平生《太平記》を愛読していた一面をもち,また倹約家として知られていた。
執筆者:佐脇 栄智
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(佐脇栄智)
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1432~1519.8.15
戦国期の武将。戦国大名後北条氏の初代。北条氏を称するのは2代氏綱以後で,早雲は伊勢新九郎と称した。入道して早雲庵宗瑞(そうずい)。京都の出身で,1469年(文明元)頃駿河に下向したという。76年以後今川氏の内紛に関係。87年(長享元)駿河国興国寺城(現,静岡県沼津市)城主となり,以後独自の勢力圏を築いた。93年(明応2)堀越公方足利政知の遺児茶々丸(ちゃちゃまる)を攻めて伊豆を,95年大森藤頼を追って相模国小田原を制圧。また扇谷(おうぎがやつ)上杉氏を支援して武蔵・相模で山内上杉氏と戦った。1516年(永正13)三浦義同(よしあつ)を滅ぼして相模全域を制圧。この間検地の実施や貫高の整備に着手したほか,家訓・家法(「早雲寺殿二十一箇条」)を制定したといわれる。
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…将軍義政は僧であった政知を還俗させて,鎌倉に派遣して関東の安定を図ろうとしたが,政知は関東に入ることができず韮山堀越(ほりごえ)に落ち着き堀越公方と称した。91年(延徳3)沼津興国寺城主であった北条早雲は堀越公方を倒し,たちまち伊豆国を奪い韮山城を根拠地とし,のち小田原へ進出する。早雲の伊豆侵略と民政,在地武士の掌握は着実に進められ,在地武士松下(三津),鈴木(江梨),大見三人衆(上村,佐藤,梅原),富永(土肥),山本(田子),高橋(雲見),村田(妻良)等は早雲入国と同時にこれに従った。…
…市域は箱根火山の東麓と,酒匂(さかわ)川下流の沖積地(足柄平野)とを含み,市街地は早川と酒匂川に挟まれた臨海部にある。1495年(明応4)北条早雲が大森氏を滅ぼしてここに拠ってから,後北条5代,約100年間にわたって南関東の中心となり,江戸時代には小田原藩大久保氏の城下町として,10代180年にわたって,足柄一帯の中心地であった。東海道が整備されると,箱根山をひかえた宿場町としてもにぎわうようになった。…
…伊勢宗瑞(俗称北条早雲)を始祖とし,氏綱,氏康,氏政,氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名(図)。早雲はその出自など多くがなぞにつつまれた人物であるが,1476年(文明8)に義忠没後の今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。…
…早雲寺殿は伊勢宗瑞(北条早雲)の法名に加贈された尊称であって,宗瑞が制定したとされる家訓。《北条早雲廿一ケ条》ともいう。…
…静岡県田方郡韮山町韮山にあった中世の城。1491年(延徳3)北条早雲が堀越公方足利茶々丸を滅ぼして伊豆を征服し,この地に築城したことに始まる。早雲は相模進出後も居城とし,1519年(永正16)に同地で没した。…
※「北条早雲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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