三部村(読み)さんぶむら

日本歴史地名大系 「三部村」の解説

三部村
さんぶむら

[現在地名]溝口町三部

北流する野上のがみ川に東流する藤屋ふじや川が合流する地点の北に位置し、東は父原ちちばら村。集落野上川左岸の出雲街道沿いとその両側山裾に分れ、村の北部で天万てま宿(現会見町)からの新出雲街道が出雲街道に合流する。東屋敷ひがしやしきには明和六年(一七六九)建立道標があり、施主外構とがまえ(のちの福吉村)の下邑助左衛門。碑正面に「右外構・ふじや道、左上がた・二部十町」と刻される。天文一三年(一五四四)一〇月六日の西村宗衛門・三佐衛門介連署売券(伯耆志)によると、「伯州日野之郡三部分田原名之内」の屋敷一所・山などが一貫文で助左衛門に売却されている。また南の二部にぶ宿に関連して、天正五年(一五七七)八月二〇日の西村三太郎売券(同書)に「伯州日野郡弐部村之内田中名事」とあることから、「三部」「弐部」の呼称は庄郷などの地頭職の分割に基づく可能性がある。

藩政期の拝領高は二八二石余、本免は五ツ二分。延享三年(一七四六)の巡見使案内手帳(宇田家文書)によると高三四四石余、家数二七・人数一一八、馬六・牛一六。文政一三年(一八三〇)の高三六三石余、物成一四六石余、米子御蔵へ納入すべき三歩一米は四〇石(在方諸事控)

三部村
さんぶむら

[現在地名]湖陵町三部

神西じんざい湖の南にあり、西は二部にぶ村、南は常楽寺じようらくじ村。建武三年(一三三六)四月一日の塩冶高貞寄進状(出雲大社諸社家所蔵古文書)に「出雲国稲頼庄三分方公文」とみえる。神西三良左衛門尉宛の永禄五年(一五六二)二月一九日の尼子義久安堵状(春日家文書)に「新本庄之内三分」、同一二年九月三日の尼子勝久寄進状(同文書)に「三百貫 神西ノ内三分」とある。正保国絵図に村名がみえる。また二部村との間に松川まつかわ村がみえ、寛文期(一六六一―七三)の高一四九石余と推定され、これを同一二年二部村姉谷あねだにに八二石、残りを三部村に分けて分村したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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