溝口町(読み)みぞくちちよう

日本歴史地名大系 「溝口町」の解説

溝口町
みぞくちちよう

面積:一〇〇・三六平方キロ

日野郡の北部、大山の山麓南西部に位置し、その扇状台地が桝水ますみず原・福永ふくなが原・大平おおなる原などの高原を含んで、日野川の右岸平地に傾斜する。日野川は町域を東西に二分するようにほぼ北流する。同川左岸は支流野上のがみ川による浸食の進んだ花崗岩地帯で、山地は急傾斜、谷底は段丘崖の形成が明らかである。東は西伯さいはく郡大山町と江府こうふ町、南は日野町、西は西伯郡西伯町・会見あいみ町、北は同郡岸本きしもと町に接する。町域面積のうち山林・原野七九・二パーセント、耕地九・七パーセント、宅地一・二パーセント(平成二年度調べ)。日野川沿いおよび野上川沿いは山陰・山陽を結ぶ交通上の要路にあたり、文化の交流地でもあった。現在は日野川右岸沿いを国道一八一号とJR伯備線が並行して走り、新たに建設された米子自動車道の溝口インターチェンジが町域北端にある。溝口の名称は江戸期には「ミゾクチ」とよばれたが、明治五年(一八七二)の「鳥取県御管内郡村名」に「溝口みぞぐち宿」と記される。同二二年の「鳥取県市町村区域」には「溝口みぞくち村」とあるが、のち「ミゾグチ」とよばれ、昭和五九年(一九八四)現在の「ミゾクチ」に名称変更された。

日野川と支流大江おおえ川の合流点南の長山馬籠ながやままごめ遺跡、大滝の井後草里おおたきのいごぞうり遺跡、添谷の南原そえだにのなんばら遺跡などからは縄文時代早期・前期にさかのぼる土器やマイクロプレード状石器・石鏃・磨石などが出土。大滝の神原かんばら遺跡や南原遺跡などからは弥生時代中期の土器・石器、掘立柱建物跡が検出された。これらは縄文・弥生期の丘陵地集落の存在を裏づけ、山陰・山陽を結ぶ古代文化の交流地としての地域的な性格をも想定させる。町域での古墳調査実績は少ないが、宮原みやばら宮原一―三号墳(宮原神社古墳群)二部の三軒屋にぶのさんげんや古墳のほかは小規模のものが多く、分布は桝水原福永原と野上川下流に多い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報