上倉村
かみくらむら
長峰丘陵南端の西側凹地に立地。北は奈良沢村、南は静間村、東は飯山城下の上町、西は正受庵の段丘から坊主山・関田山脈へ続く。
永禄三年(一五六〇)九月武田信玄が「信濃奥郡」へ侵入するに際して、佐久郡松原社へ奉納した願文に「引率甲兵於信之奥郡、日不経十日而亀蔵城自落退散」とみえる(松原神社文書)。上倉城(亀蔵城)は越後上杉氏の飯山守備の重要前線であった。永禄一一年七月長沼(現長野市)に在陣した信玄は飯山へ進出、上杉輝虎の属城飯山城を陥れた。同月一〇日付赤見源七郎あての信玄書状(赤見文書)に「今十日、於信州飯山頸壱ツ討取」とあり、同日付加藤丹後守あての信玄書状(諸州古文書)には「今度上蔵落居、此次而向越府雖可成動候」と書いているから飯山城は上倉と推測される。
上倉村
あげくらむら
[現在地名]南国市上倉
白木谷村の北に位置する山村。「土佐州郡志」は「属廿枝郷戸山、去高知東北三里、東限細佐古嶺、西限木槲之畝及西嶺、南限立嶺、北限大改野嶺、(中略)其土赤黒交砂」と記す。江戸時代後期には上倉郷の本村となる。村の北にある陣之森の頂上からは土佐湾が望まれる。
天正一六年(一五八八)の戸山分亀岩村西之内東之内地検帳によれば、近世の当村分は内題に「戸山西之内上蔵谷地検帳」と記され、検地面積六町二反余、うち田二町五反余、切畑二町八反余、残りは屋敷。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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