日本歴史地名大系 「上徳山村」の解説
上徳山村
かみとくやまむら
応永二年(一三九五)二月吉日の徳山将監渡状(徳山文書)で「徳山之内、中大夫名半名」が徳山右馬丞へ渡された。同地は南は「大かわ」、北は「うつミ谷」を境とし、西は山であった。文明年間(一四六九―八七)のものと思われる二月二〇日の山禰民部渡状(同文書)で「山禰分」が徳山右馬丞に渡されている。天文一一年(一五四二)一二月一日の八郎兵衛請取状(同文書)に徳山村とみえ、米一石五升・銭七〇〇文を皆済している。このうち一石は「月御崎まつり」にあてられた。永禄八年(一五六五)の堀江政次渡状(同文書)で徳山のうち「山禰田壱段、同垂尻共」が「前々筋目」により徳山新四郎に渡された。天正三年(一五七五)一二月一三日の福田久則請取状(美作古簡集)によれば、徳山国吉名の公用銭は米三石四斗(代銭一貫一〇〇文)で、うち六斗(代銭二〇〇文)は天王の御供米であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報