上永井村
かみながいむら
[現在地名]飯岡町上永井
下永井村の東にあり、南は海に面する。元禄・天保両郷帳などでは上長井と記す。村の南端に刑部岬があり、東に屏風ヶ浦、西に九十九里浜が続くその境となっている。この東、磯見川河口近くにある通蓮洞は竈形の空洞で、男竈と女竈があったというが(海上郡誌)、現在は海食が激しく往時の景観はない。同じく海食によりその痕跡すら知りえない佐貫城があり、「平家物語」巻九や「源平盛衰記」巻四三にみえる片岡常春を城主と伝えている。地内の大堀・大堀台・堀切・帯台や馬場・大塚・宮内・番匠野、または大海道はこの城に関連するものか。天正一八年(一五九〇)木曾義昌領になったとみられ、慶長一八年(一六一三)の木曾氏旧領書上(岩井家文書)に上永井村とあり、高二一九石余。
上永井村
かみながいむら
[現在地名]いわき市三和町上永井
小玉川上流の阿武隈高地中にあり、南東は下永井村、西と北は指塩村、南は峰を越えて渡戸村・中寺村。磐前郡に属した。もと長井村・永井村のうちで、元文年中(一七三六―四一)に上・下に分村したといい、一説には享保四年(一七一九)の分村という(「郷土誌」永井小学校蔵)。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)泉藩領、元禄一五年(一七〇二)以降幕府領。天保一三年(一八四二)の手余地高并家数取立願(福島県史)によれば、高四六七石余のうち手余荒畑高五一石余で、家数・人数は文化七年(一八一〇)六九・二四三、天保六年六一・二三一、同一三年三〇・一二〇。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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