上野岩太郎(読み)ウエノ イワタロウ

20世紀日本人名事典 「上野岩太郎」の解説

上野 岩太郎
ウエノ イワタロウ

明治・大正期の新聞記者 新公論社長;「東京朝日新聞」記者。



生年
慶応3年8月1日(1867年)

没年
大正14(1925)年10月27日

出生地
肥後国熊本(熊本県熊本市)

旧姓(旧名)
野口

別名
号=抹羯(靺鞨)

経歴
徳富一敬(淇水)に漢学師事。上京後政治家星亨書生となった。明治22年村山龍平の「大阪公論」に入った。23年「大阪朝日新聞」に入社、27年日清戦争には従軍記者となり、28年特派員としてウラジオストクに入り、ロシアの大陸経営、ハルビン建設などを報道。次いで「東京朝日新聞」の初代北京特派員として北清事変日露戦争にも従軍記者を務めた。38年戦争半ば、北京の「順天時報」社長となった。また44年には「新公論」を経営、その後日支共同通信社にも関係した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「上野岩太郎」の解説

上野岩太郎

没年:大正14.10.27(1925)
生年:慶応3.8.1(1867.8.29)
明治後期から大正時代にかけての新聞記者。号は靺鞨。野口新作の長男として肥後国(熊本県)に生まれ,後に上野姓を継ぐ。星亨の書生をしたのち,明治22(1889)年『大阪公論』記者となる。『自由党党報』に非内地雑居派を攻撃する論説を書いた。『東京朝日新聞』の初代北京特派員として北清事変(1900)に従軍。日露戦争(1904~05)にも従軍し,37年9月30日付『東京朝日新聞』には上野撮影の遼陽戦の写真が掲載された。上野のもっとも得意としたのは戦地通信で,文章雄健にして精彩に富んだものであったという。38年『順天時報』社長となり,44年からは『新公論』を経営した。<参考文献>黒竜会編『東亜先覚志士記伝』下(復刻,1966)

(小宮一夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上野岩太郎」の解説

上野岩太郎 うえの-いわたろう

1867-1925 明治-大正時代の新聞記者。
慶応3年8月1日生まれ。徳富一敬,星亨(とおる)にまなぶ。「朝日新聞」の初代北京特派員となり,北清(ほくしん)事変,日露戦争に従軍。明治38年北京で「順天時報」社長。44年「新公論」の社長となった。大正14年10月27日死去。59歳。肥後(熊本県)出身本姓は野口。号は靺鞨(まつかつ)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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