精選版 日本国語大辞典 「星亨」の意味・読み・例文・類語
ほし‐とおる【星亨】
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明治期の弁護士、政党政治家。嘉永(かえい)3年4月14日、左官職人佃屋(つくだや)徳兵衛の長男として江戸に生まれる。父出奔後、母が医師星泰順と再婚、星姓を名のる。維新後陸奥宗光(むつむねみつ)に認められて政府に登用される。1874年(明治7)横浜税関長時代、イギリス領事館との文書中に「女帝」と「女王陛下」の訳語をめぐる事件でイギリス公使パークスと争い解任される。同年政府命でイギリス留学、日本人初のバリスター・アット・ロー(イギリス法廷弁護士)を取得。帰国後、司法省付属代言人(後の弁護士)第一号となる。1882年自由党に入党、福島事件の河野広中(こうのひろなか)を弁護する。1884年官吏侮辱罪で服役中、自由党解党にあい獄中から反対。同年出獄後、5月『自由燈(じゆうのともしび)』創刊。1887年大阪事件公判で大井憲太郎(おおいけんたろう)を弁護し、同年10月三大事件建白運動を推進。翌1888年出版条例違反などの罪で下獄するが、1889年憲法発布大赦で出獄後欧米に遊学。翌1890年帰国後、立憲自由党に入党し、1892年第2回衆議院総選挙で当選。第三議会で第2代衆議院議長となる。議長不信任案可決を認めず議員を除名される。翌1893年総選挙で再選され自由党に復帰。このころより「押し通る」と異名をとり、藩閥・官僚と政党との提携を画策。1900年(明治33)伊藤博文(いとうひろぶみ)を担いで立憲政友会を結成し、第四次伊藤内閣の逓相(ていしょう)となり政界の実力者にのし上がる。民権期以来、改進党の牙城(がじょう)であった東京市政を三多摩壮士を手兵に牛耳(ぎゅうじ)り、1901年市会議長となるが、同年6月21日、教育家の伊庭想太郎(いばそうたろう)(1851―1903)に市庁参事会室内で刺殺された。
[松尾章一]
『服部之総著『明治の政治家たち 上』(岩波新書)』▽『有泉貞夫著『星亨』(1983・朝日新聞社)』▽『鈴木武史著『星亨――藩閥政治を揺がした男』(中公新書)』
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1850.4.14~1901.6.21
明治期の政党政治家。江戸の職人の家に生まれる。維新後に横浜税関長を務め,のち渡英してイギリスの弁護士資格を取得。帰国後に代言人となる。1882年(明治15)自由党入党。解党後,三大事件建白運動を推進。第2回総選挙に当選して衆議院議長となり,自由党を第2次伊藤内閣との協調に導いたが,党内外から反発をうけて第5議会で議員を除名された。98年,憲政党と第2次山県内閣との提携に成功し,日清戦後の懸案であった地租増徴を成功させる。1900年,立憲政友会が発足すると憲政党を挙げて参加し,党内最大の実力者となる。第4次伊藤内閣の逓信相となるが東京市疑獄事件で辞任,半年後,伊庭(いば)想太郎に刺殺された。地方利益の誘導による党勢拡張という,日本型政党政治の原型をつくった人物とされる。
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…きっかけは,条約改正交渉の実態がボアソナードの反対意見書や谷干城農商務大臣の辞職などによって明らかになったことであり,条約改正交渉も政府の内部対立によってこの年7月末に中止された。自由民権運動沈滞の中にあって,民権派の大同団結を企てていた星亨らは,この機会に乗じてボアソナードの反対意見書や政府の憲法審議資料の一部などを秘密出版し,条約改正交渉反対を軸とする反政府運動をもりあげようとした。上記の3件はそのために選ばれたスローガンであり,各地の有志者は元老院に対する建白書を携えて府県庁に押しかけ,また代表委員を上京させて元老院や政府高官の門をたたいた。…
…84年に入ると各地で自由党急進派を中心とする激化事件が頻発し,これに対して幹部は党内を十分統制できず,10月解党を決議するに至った。 内閣制度創設後,86年に入ると星亨らは,後藤象二郎を中心に自由・改進両派の連携を軸に旧民権派を結集してきたるべき国会開設を目標とした大同団結運動を起こす。しかし,改進党は参加せず,後藤も運動が高揚した89年3月黒田清隆内閣に入閣したため,運動は分裂してしまった。…
…市街地改造論や築港問題も政府や東京府関係者の間で検討され,そうした動きは,1888年以降の東京市区改正事業として,道路(鉄道馬車の普及に伴う道路の舗装と拡張),水道(木管水道から鉄管水道への改良)の整備に結びついた。また星亨らの努力の末,1度は衆議院で可決された東京築港案は築地付近案ではなく,芝浦中心案であった。しかしこの計画は星亨暗殺事件で廃案となった。…
…自由党は大新聞(おおしんぶん)として1882年6月に《自由新聞》,小新聞として84年5月に《自由灯(じゆうのともしび)》をそれぞれ創刊して,自由民権思想の国民への浸透を図ったが,《自由新聞》(第1次)は85年に権力の弾圧と党内抗争によって廃刊となった。《自由灯》は社長星亨を中心に継続して刊行され,一時は東京第一の部数を誇ったが,やはり弾圧を受けて86年1月に《灯新聞》と改題し,さらに翌87年4月に《めさまし新聞》と再改題された。《めさまし新聞》は伊藤博文首相の鹿鳴館でのスキャンダルを報道して改題直後に,8週間もの発行停止処分を受けるなど,軟派記事による権力批判を売物に民権派の小新聞としての伝統を守った。…
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