日本歴史地名大系 「下ノ茅浦」の解説
下ノ茅浦
しものかやうら
下ノ茅村の浦分で、
天和三年(一六八三)の浦々水主船数定書によると水主数九九、船数二五、うち廻船一四(一〇反帆三・九反帆一・八反帆一・七反帆四・六反帆二・五枚帆二・四枚帆一)、漁船一一。宝永四年(一七〇七)の「亥の大変」では大きな被害を受け、「南路志」に「下茅 亡所、潮ハチシヤノ木迄、市井ハ海ニ沈」とある。「チシヤノ木」は
「西浦廻見日記」(安永七年)は「下茅川大也、三原より出る川へ大船乗り入る川湊也、近年あせて漸一艘づゝかゝる、二十年前迄は四艘も并びかゝれり、其前ハ七艘かゝりしよし、こゝは津口へ薪過分出る、大網にていはしを取る、近年とれず困窮せり、もとさかえたる時のならハせにて、渡世の道ににぶくおこたれりとぞ、鰹漁船なし、小猟船にて漁三月より少しづゝ釣る、うゑを脱けるよし、家居などさすがによし」と記し、さらに「下の茅より窪津・伊布里の網代を争ふよし、もと窪津・伊布里網代ハあれど魚とらざりしかバ、下の茅より取るをも制セずしてとらしめしを、近きほど両浦とも網出来てわがあじろにて取んとするに、下の茅より今迄取り来れるよしなれバ、わが網代にせんとする也、近き所村長ども居間して、窪津よりあじろ半分斗ゆるしつかハすにて事おさまるよしきこゆ」と記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報