網漁業(読み)アミギョギョウ

デジタル大辞泉 「網漁業」の意味・読み・例文・類語

あみ‐ぎょぎょう〔‐ギヨゲフ〕【網漁業】

網を使って魚をとる漁業総称

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精選版 日本国語大辞典 「網漁業」の意味・読み・例文・類語

あみ‐ぎょぎょう‥ギョゲフ【網漁業】

  1. 〘 名詞 〙 網漁具によって行なう漁業の総称。

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改訂新版 世界大百科事典 「網漁業」の意味・わかりやすい解説

網漁業 (あみぎょぎょう)

網漁業とは,いうまでもなく漁網を用いて魚を捕る漁業一般をいうが,漁獲技術における位置づけについては〈漁労文化〉の項目に譲り,ここでは日本における網漁業の歴史の概観に限定する。

 日本の漁業が産業の一部門と認められるまでに発達したのは江戸時代以降のことである。とくに江戸時代中期以降かなり急速に発達し,幕末期までに代表的な沿岸漁業が出そろい,そのまま明治期に持ち越された。その漁業生産を担った漁具は漁網,釣具,特殊漁具に三大別できる。そのうち最も主要なものは漁網であり,釣具がそれに次いでいた。漁網といっても多種類にわたるので,いくつかに分類し,それにそって網漁業を概観していこう。農商務省が1886年に編纂に着手し10年を経て完成した《日本水産捕採誌》の漁網分類をみると,引(曳)網,繰網,巻(旋)網,敷網,刺網,建網,掩(かぶせ)網,抄(すくい)網の8類であり,これがその後の漁網分類の原型となっているので,ここでもこの分類による。

引網類は魚群を囲み岸辺や漁船に引き寄せてそれを捕獲する網で,だいたいは中央部に囊(ふくろ)を備えていた。岸辺に引き寄せるものを地引網,漁船に引き寄せるものを船引網といった。捕獲対象となる魚類は多種多様であるが,イワシを主とするものが最も多かったようである。地引網は岸辺で使える簡単な網であったから古くから用いられた網で,正倉院御物〈麻布山水図〉にもみられるという。はじめは小規模であったにちがいないが,しだいに発達して幕末期までにはかなり大規模なものが出現していた。最も大規模に発達したのは九十九里の大地引網,天草の大地引網などで,網船2隻,漁夫50~60人,ほかに曳子100人ほどを要するものがあった。さらに地引網には人力で網を引き上げるものだけではなく,ろくろを使用するものも生まれてきていた。船引網でも同様に網の大規模化やろくろ使用がみられた。たとえば筑前地方のイワシ沖引網では漁船4隻,乗組員36人を要するものがあったが,それにも船腹に備え付けたろくろによって網を引き上げていたものがあった。地引網は最も主要な大規模漁網の一つとして発達したが,明治期にはそのピークが過ぎて九十九里の地引網をはじめ,その衰退過程を示すものが少なくなかった。

繰網類は引網類が主として回遊魚を捕獲対象としたのと異なり,もっぱら水底に生息する魚類を捕獲する引網であった。それらを使用するには網を水底におろして引綱を伸ばし,錨をおろして船を固定させたうえで,引綱をとって網を引きよせるもの(手操(てぐり)網),風力や潮流の力などを利用し船を走らせて網を引きまわすもの(打瀬(うたせ)網)などがあった。打瀬網は幕末期や明治期に大いに普及するようになった能率漁網として注目され,手繰網より改良されたものと思われる。手繰網の開発がいつかは不明であるが,引網類よりは遅かったとみてよい。なお打瀬網の規模は漁船1隻,乗組員数人のものが多かったが,若狭のカレイ打瀬網には乗組員12~13人のものもあった。

巻網類は主として浮魚の群をそれで取り囲み,船べりに繰り寄せて魚群を捕獲するしかけの漁網である。巻網類は技術的にやや高度で機動性に富む沖合操業的性格を持っていたから,その発達自体は比較的おそかったと考えてよい。とはいえ相模・房総のまかせ網は江戸時代初期から使用されていたイワシ巻網であるが,その規模は大きく,漁船6隻,漁夫80~90人を要するものもあった。ただこの網は江戸時代中期以降衰退しており,かなり不合理,非能率な技術段階の網であったことが知られる。それらに改良が加えられたものであろう,幕末期や明治前期には,漁船4~6隻,漁夫30~50人といった相当規模の巻網類が各地にみられた。また,そのころ日本の漁業生産全体としては伸び悩み状態に当面していたが,その状態から脱出するための高能率漁網開発に最も早く成功したのはこの巻網類であった。すなわち明治20年代に千葉県海上郡椎名内村の千本松喜助らが改良揚繰(あぐり)網を発明し,同じころ関沢明清らによって紹介されたアメリカ式巾着網を,岩手県宮古湾岸鍬ヶ崎の大越作右衛門が導入することに成功した。改良揚繰網はおよそ長さ106間,幅21~22間ほどの麻網で,漁船2隻,漁夫26人を要したという。アメリカ式巾着網も麻網で,改良揚繰網よりもさらに大規模であった。両網はその後広く各県に普及して日本の代表的巻網となった。

敷網類は水中に網を敷くように張り広げておき,その上に集来した魚群を捕獲するしかけの漁網である。網の上に魚群をのせるには,魚群の進路を予測して待機したり,火光もしくは餌料で誘致したり,または魚群を威嚇して追い込んだりした。敷網類のおもな捕獲対象となったのは浮魚であった。この網の規模もいろいろありえたであろうが,イワシ等をおもな捕獲対象とした八手(はちだ)網・四艘張(よんそうはり)網などは,江戸時代の初期から中期にかけて開発され普及したものが多いという。巻網類と同様に,当時としては沖合操業性の強い性格を持った大規模漁業が少なくなかったとみられる。しかしこれら敷網類の操業は潮流などに左右されることが多く,沖合で操業できる大規模漁業とはいっても,実際は巻網類以上に不合理,非能率な諸要因をたくさん持っていたのではないかと思われる。大規模なものの一例である房総の八手網は,漁船3隻,漁夫40人ほどのものであった。しかしそれらも,明治中期の改良揚繰網の出現によって完全に駆逐された。

刺網類は水中に張り立てて置き,魚類が網目に引っ掛かって逃げられないようにするしかけの漁網である。水の表層に張り立てて置くものを浮刺網,中層に張り立てて置くものを中刺網,水底に張り立てて置くものを底刺網といった。中刺網や底刺網は網の固定度が高く,江戸時代初頭から普及していた。浮刺網の中にも浮立網のごとく固定度の高いものもあったが,その大部分は沖合での操業性の強い流網で,その開発は江戸時代中・末期,とくに末期以降に発達したものが多かったのは,打瀬網と同様であった。沿岸性の強い漁業の生産が伸び悩みの傾向をみせはじめた当時に,打瀬網と流網は沖合操業性の強い高能率漁網であったから,在来の漁業からは有害漁網と非難されながらもしだいに普及していった。

建網

建網類は回遊魚群の多いところに定置する網で垣網と身網から成っている。すなわちそこを通過する魚類を垣網によって身網に誘導し,身網を起こしてそれを捕獲するしかけの網で,ブリ,マグロ等を捕るかなり大規模の漁網が少なくなかった。その主要なものに次の4系統があったという。(1)長門・肥前を中心とする西南系大敷網,(2)越中・能登を中心とする北陸系台網,(3)陸前・陸中を中心とする東北系大網,(4)陸奥・北海道方面の建網である。(4)の北海道の建網は幕末期に発達したものであるが,(1)~(3)の網はいずれも江戸時代の初頭から使われていて,その後しだいに技術改良や規模拡大が進められたものとみられる。能登のブリ台網の例では明治初年の所要漁夫20~30人であり,東北系大網の場合もおおよそその程度と考えてよい。もちろん建網の規模は,捕獲対象魚種,漁場の状況,経営の主体的条件などによってかなりの幅が考えられる。北海道の建網を除く3者は,幕末期に身網の一部に麻網が使用されたほかは藁縄製であり,明治期にはその生産が停滞ないし衰退の傾向をみせていた。この状態を打破する技術革新は1892年宮崎県の日高亀市・栄三郎父子によって行われた,日高式ブリ大敷網であるが,それは従来のものと異なり身網が全部麻網で網形も倍以上の大きさであった。その網揚げには6人乗りの漁船16隻,9人乗りの漁船4隻を必要としたが,その漁獲能率がずっと大きかったから,県内はもちろん広く他府県に広がった。1910年日高父子はさらに改良につとめ,日高式ブリ大謀網を発明,普及した。

最後に掩網・抄網であるが,これは名称のとおりかぶせたり,すくったりする小型の原始的な網で,最も古い時代から使用されてきたものと思われるが,その経済的価値は小さかったとみられる。

以上でも触れたように幕末期までの発達で日本の代表的な沿岸漁業技術は出そろい,その中で最も比重の高かったのは網漁業であるが,明治前期には総体としてそれが頭打ち,伸び悩み状態に立ち至った。その状態から脱出するための漁網の改良については前述したが,それを可能ならしめたのは網材料の改良であった。最初の改良は麻網の普及であったが,明治後期以降は綿網の登場と普及であり,その歴史的意義はきわめて大きかった。明治以前に綿糸が漁網材料となることはほとんどなかった。短繊維である日本の在来種から紡出できる綿糸は,漁網用に適しなかったためである。長繊維の輸入綿花に依存した日本の綿紡績業の発展が,細くて強い高番手綿糸を供給できるようになることが,綿漁網成立のための第1の必要条件であった。その条件が満たされたのは明治20年代である。このころから綿網は麻網よりも漁網として勝り,かつ安価であるというので使われはじめた。しかし綿網が広く普及するためにはさらに第2,第3の必要条件が満たされなければならなかった。それらは撚糸過程と編網過程の機械化であり,それらの達成には明治30年代以降大正初年に及ぶ模索が必要であった。

 これに明治末期に達成される漁船の動力化が加わって,機船底引網漁業を先頭に網漁業の動力化が行われ,沖合遠洋漁業における網漁業発展の途が開かれていった。大正期以降戦前期の日本漁業の急速な発達には,沿岸漁業も含めて網漁業の果たした役割が大きい。戦後にはさらにナイロンなど合成繊維の登場,普及と漁船動力化の拡大,それに漁船付属の漁労補助設備の発達などにより,網漁業は飛躍的発展を遂げた。
敷網漁業 →底引網漁業 →巻網漁業
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世界大百科事典(旧版)内の網漁業の言及

【網人】より

…網漁業を主として行う海民の呼称。1090年(寛治4),鴨御祖社領近江国堅田御厨(堅田)の網人が,網2帖の課役を免除され,安曇川にまで行って漁をしていたといわれ,91年ごろ,同じ鴨社領摂津国長渚御厨の網人が讃岐国まで往返して網を引き,供祭人と称して濫妨したと讃岐国司から訴えられているのが早い例である。…

【漁業】より

…またこの中世期に漁業生産の発展は,地域的拡大と漁業技術の発達という両面でさらに進められた。すなわち,はじめ畿内やその周辺が主であった漁業生産はかなり地域的に広がったし,中世末期には江戸時代に開花する大型網漁業が,伊豆,陸前,越中,九州など各地に姿を現しはじめたことが知られている。
【近世における漁業の発展】
 漁業が名実ともに一つの産業といえるまでに発達したのは,江戸時代に入ってからである。…

※「網漁業」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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