下中条村
しもなかじようむら
秋元村の東、北流する庄川の西岸にある。北は西部金屋村(現高岡市)、東は庄川を挟んで東保村・八十歩村。東保村の一部にも当村分の耕地があり、庄川東遷以前は河床も当村分に含まれていた。当村と柳瀬村・中村・開発村の四ヵ村はもとは一村で中条村と称したが、のちに開墾が進んで四ヵ村に分れたという(越中志徴)。村名は中条村のうち下流部分にあることにちなむか。慶長一四年(一六〇九)高岡築城に際して大鋸の手伝人足差出方を命じた奥村家福等家老からの申付状(浅井家文書)の宛先に「はんにや野之内中条村又右衛門」とある。
下中条村
しもちゆうじようむら
[現在地名]行田市下中条
北は利根川に接し、南は斎条村、東は見沼代用水を隔てて須賀村。荒川扇状地末端約五キロ平方にわたり、地下一メートルの所に埋没している古代条里遺構の西端に上中条村(現熊谷市)があり、東端に当村が位置していると解されている。縄文時代後期および古墳時代の集落遺跡がある。古くは幡羅郡の東端であったとする説がある。
天正一九年(一五九一)六月松平家忠が一万石を宛行われたが、このうちに「下中条村」の三一七石余も含まれた(「伊奈忠次知行書立」長崎県片山家文書)。
下中条村
しもちゆうじようむら
[現在地名]茨木市下中条町・東中条町・西中条町・新中条町・小川町・駅前一丁目・同三丁目・西駅前町
上中条村の南にあり、東を茨木川が流れ、高槻街道が村内を通る。元和初年の摂津一国高御改帳に北見勝忠預の幕府領とある「四百四拾六石七升八合 茨木分」が下中条村のこととみられ、寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では山城勝竜寺藩永井直清領の「茨木村」二千二二三石余に含まれた。天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳に「下中条村」四四六石余がみえ、「此村茨木之出作、在家無之」と注記。明暦二年(一六五六)村高のうち二四四石余が旗本板橋政郡に与えられ、板橋領は幕末まで続く。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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