下分村
しもぶんむら
[現在地名]川之江市金生町下分
現川之江市の中央部に位置し、東は山田井村、南は上分村、西は妻鳥村、北は川之江村に接する。金生川が村の中央を貫流し、土佐道が南北に通る。
金生川流域の歴史は古く、川床から弥生時代中期の中広形銅矛一口が出土。また横穴式巨石墳である向山古墳(県指定史跡)を中心とする向山古墳群や住吉古墳(字松木)などがあり、強大な勢力をもつ豪族の存在を示している。宇摩郡山田郷に属したとされる。
享保六年(一七二一)の伊予国宇摩郡下分村明細帳(長野家文書)に「年号不知加藤左馬之助様御検地之由申伝候」とあり、慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇摩郡の項に「下分村 松林有、日損所、小川有」とみえる。
下分村
しもぶんむら
[現在地名]須崎市下分・西町一―二丁目
新荘川下流の平地の村。東の須崎村、北の池ノ内村との間に五紋中山に連なる低い山々がある。「土佐州郡志」には「与須崎相接、西有二石為際、東南海也、西限安和村・下郷村、北限池之内村、東西二十五町許南北八町許、戸凡百三拾」とみえ、村内に今在家・岡本・半下・坂之川・中氏・柿谷・長竹・門屋の八小村があることを記し、中氏は下郷村の小村でもあった。
中世は京都下鴨神社領津野新庄に含まれた。正安三年(一三〇一)同庄が中氏と下郷を結ぶ線で中分されたとき、境界線の西の領家分を上分といったのに対し、東の地頭分は下分とよばれたと考えられ、下分は下分郷ともいわれた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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