須崎村(読み)すさきむら

日本歴史地名大系 「須崎村」の解説

須崎村
すさきむら

[現在地名]須崎市須崎・みなと町・はら町一―二丁目・鍛治かじ町・東糺ひがしただす町・西糺にしただす町・しん町一―二丁目・青木あおき町・はま町一―二丁目・東古市ひがしふるいち町・西古市にしふるいち町・南古市みなみふるいち町・よこ町・さかえ町・さいわい町・なか町一―二丁目・西にし町一丁目

しろ(一四二・七メートル)南麓の砂洲上に開けた村。南の海蔵寺かいぞうじ山との間に天然の良港須崎湾を控える。かつて須崎村・おおごう村・下分しもぶん村一帯は一面の入海で、城山・五紋中ごもんちゆう山は直接海に面していたという。この内海に流れ出た新荘しんじよう川の土砂は、沿岸潮流によって漸次城山・五紋中山などの山麓に堆積して砂洲を形成。スサキの地名も洲崎を意味し、吾川あがわ伊野いの椙本すぎもと神社(現伊野町)にあった鰐口の文明一九年(一四八七)の銘(古文叢)に「洲崎大善寺大檀那刀禰夜叉丸」とみえるように、古くは洲崎とも書いた。

天正一六年(一五八八)の津野洲崎地検帳によると志津喜・竹鼻・家永・公文・是延の五名があった。また「先年ハ問修理分」「問屋敷」などの記載があるので、中世は津野つの庄の年貢や後背山間部の産物積出港として問丸の存在も確認される。前記椙本神社鰐口銘にある夜叉丸もこのような有力問丸であったと考えられる。天文五年(一五三六)の伊勢御師御炊大夫の旦那帳(来田文書)の須崎の「市分」に「さかいあき人 たるや与五郎殿 太布一たん 弓木十九張」とみえ、堺商人が須崎に滞在していたことを示しており、戦国時代末期には港湾小都市としても栄えていたことがうかがえる。

津野洲崎地検帳には「須崎市浜原帳之事」の内題があり、津野本庄であったと考えられる現青木町以東の浜町・新町・原町と、津野新庄に属したと推定される現東古市町・西古市町・横町・幸町・栄町・東糺町を合せて洲崎とよび、漠然とはしているが原・市・浜の三地区に分れていた。地積一九町六反余、ヤシキ二六七筆、塩浜二〇で、寺が二〇あり、在地の給人は津野氏の重臣山内右衛門大夫ら四四人。給人といっても武士的給人のみならず、番匠・鍛冶などの職人や有力商人など多様であった。津野氏番城のあった城山山麓、現鍛治町にあった山内右衛門大夫の土居を中心に、津野氏家臣団の居屋敷が山麓に沿って東西に並び、中央を南北に走る街路の東部は有姓商工業者の町屋西部は無姓の者の町屋となり、その南部の海浜に臨んだ地区に漁民集落があった。


須崎村
すさきむら

[現在地名]墨田区向島むこうじま二丁目・同五丁目、江東区大島おおじま一丁目など

請地うけじ村の北西、大川(隅田川)の東岸に位置する。南は小梅こうめ村。水戸への道(曳舟川通)が通る。古くは入海の洲先の地で洲崎とも記し、当村と小梅こうめ押上おしあげ中之郷なかのごうの四ヵ村を含む一帯を牛島うしじまといい、牛島四ヵ村と称されたという(風土記稿)。永禄一一年(一五六八)一一月一五日松田景秀から牛島御前うしじまごぜん(現牛島神社)の別当寺最勝さいしよう寺に宛てた景秀判物写(武州文書)に「須崎」とみえ、堤外の畠地計一八〇余ヵ所が以前からの神領であることが確認されている。


須崎村
すざきむら

[現在地名]下田市須崎

柿崎かきさき村の南、伊豆東海岸の南部、須崎半島の先端に位置し、集落はおもに現在の須崎漁港周辺とその東側に形成される。洲崎村とも記す。永禄元年(一五五八)一一月一日、北条氏は新造熊野船の乗員を定め、材木を駿河国清水から伊豆国網代あじろ(現熱海市)まで回漕させたが、船方三三人のなかに「洲崎」の者三人が含まれる(「北条家朱印状写」長浜大川文書)。北条氏所領役帳には玉縄衆の朝比奈孫太郎の役高として二七貫「須崎・柿崎」とみえる。天正一四年(一五八六)一〇月一八日の北条家朱印状(三嶋大社文書)によると、須崎など一〇郷村は三嶋社(三嶋大社)祭銭を未進しており、同社神主らが徴収することを認めている。


須崎村
すざきむら

[現在地名]金沢市須崎町・みなと二―三丁目

浅野川の下流左岸、大河端おこばた村の北に位置する。天正一四年(一五八六)正月二二日の前田利家印判状写(黒津舟神社文書)に村名がみえ、黒津舟くろつぶね権現(現内灘町の小浜神社)再興の協力を命じられている。なお一向一揆の将で、松根まつね城に拠ったとされる洲崎慶覚は小坂おさか庄や大野おおの庄などへ乱入しており、当地に何らかの拠点を有していた可能性がある。正保郷帳では高三一二石余、田方一七町六反余、畑方三町二反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高三四一石、免六ツ二歩で、猟船櫂役四五匁(うち二〇匁退転)・鳥役一〇匁の小物成があったが、鳥役は鷹場になり免除された(三箇国高物成帳)


須崎村
すさきむら

[現在地名]西土佐村須崎

津野川つのかわやぶいちの西、目黒めぐろ川と家地いえじ川の合流点の上流、目黒川が大きく北流して弧を描いて東南に流れる辺りにある村で、下山しもやま下分しもぶんの一村。「土佐州郡志」は「州崎村」と記し、「大宮村ノ東、々西十五町許南北十町、有下桁小村、(中略)有予州鬼城下流出之小川矣」と記す。現在、通称地名に下桁しもげた下崎しもざき奈路なろ小崎こざきがある。

天正一七年(一五八九)の下山郷地検帳に須崎名がみえ、同名は西村・島ノ奈留・トイノ谷・名本村・下崎村・舟ハイ村・坂本さかもと村・下桁村・永生ながおい村・藪我市やぶがいち村に所在している。


須崎村
すさきむら

[現在地名]白川町中川なかがわ 須崎

白川左岸の山間地に位置。北は中屋なかや村、南は黒川くろかわ村、西は水戸野みどの村。井之洞いのほら谷を越して黒川村しも新田に抜ける道があった。慶長郷帳では杉村とあり、高七三石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では遠山友政(苗木藩)領で、以後幕末まで続く。正保郷帳では田方四〇石余・畑方三二石余。


須崎村
すざきむら

[現在地名]遠野市土渕町柏崎つちぶちちようかしわざき

象坪ぞうつぼ(四〇三メートル)の南西麓、小烏瀬こがらせ川下流左岸に位置し、土淵つちぶち村・本宿もとしゆく村の東、柏崎村の北西にある。洲崎村と記されることもあった。寛永四年(一六二七)の南部利直知行宛行状(三翁昔語)によれば、洲崎村の高四九石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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