下地間切(読み)すむずまぎり

日本歴史地名大系 「下地間切」の解説

下地間切
すむずまぎり

宮古島南西部のほぼ三分の一を占め、その南に位置する来間ふふやま島、西方伊良部いらぶ島のほぼ西半分と、その西の下地島によって構成される。現下地町のほか、伊良部町平良ひらら市の各一部にあたる。下地の称は平良ぴいさらの下にあたる地域の意と解されている。「球陽」尚豊王八年(一六二八)条に宮古を平良・下地・砂川うるか三郡に分けるとあるが、万暦二三年(一五九五)八月二九日の辞令書(県立博物館蔵)に「しもちの大しよりの大やこ」とみえ、古琉球より間切が成立していた。同辞令書によれば、大宮古うぷみやーく間切の元の島尻首里大屋子の所持していた地から、田三カリヤ・一三マシ、畑一〇〇ヌキ・六オホソ、また首里大屋子管下の七人のすかまくちたわら、なかこはらのワクコナ衆から一年に一人につき三すかまずつ、同じくワクコナ衆から一年に一人につき一すかまずつなどが下地大首里大屋子に与えられ、これらの分の貢租は免じるという。嘉靖年間(一五二二―六六)宇真乃古(仲宗根豊見親玄雅の四男)が平良大首里大屋子に任じられるが、三、四年後に下地大首里大屋子になっている(「球陽」尚寧王二一年条、御嶽由来記)。なお「李朝実録」世祖八年(一四六二)二月辛巳条にみえる「時麻子島」は現伊良部町の下地島に比定されるが、下地の地名としては最も早い例である。

嘉靖元年一二月、首里城外に建立された国王頌徳碑に「首里おきやかもいかなしの御代にみやこよりち金丸ミこしミ玉のわたり申候時にたて申候ひのもん」と記された「ミ玉」(真珠)は、天女の子と伝えられる真種子若按司から川満大殿が譲り受け、仲宗根豊見親から尚真王に献上されたもの(御嶽由来記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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