日本歴史地名大系 「下岳村」の解説 下岳村しもだけむら 長崎県:西彼杵郡西彼町下岳村[現在地名]西彼町下岳郷(しもだけごう)・白崎郷(しろさきごう)・上岳郷(かみだけごう)・喰場郷(じきばごう)・平原郷(ひらばるごう)鳥加(とりか)村の東にあり、東部は内海に臨む。西に鷹(たか)ノ巣(す)岳、東に峯(みね)岳があり、大明寺(だいみようじ)川が流れる。喰場郷に八幡山(はちまんやま)城跡、上岳郷に城の尾(しろのお)城跡がある。正暦五年(九九四)大村氏の祖直澄が当地に来たとき休んだという腰懸石が伝えられ、北端部に母衣崎(ほらざき)という地名が残る。その南西の膝行神(いざりかみ)に大串(おおくし)郷の長であった椎野大膳の墓所と屋敷とされる地がある。平原郷の山口原(やまくちはる)に自然石板碑形のキリシタン墓碑二基(県指定史跡)があり、陰刻「I・N・R・I」はユダヤの王ナザレのイエスの意。墓碑の背後に接して慶長一八年(一六一三)七月銘の石棺のような石造物が建ち、墓碑ともども形上(かたがみ)郷(現琴海町)の領主で文禄の役にも参陣した相川勘解由の墓ともいわれる。同年のキリスト禁教令に伴い下河内(しもごうち)の教会堂が破却されたといわれ、その一方で大村領内の日蓮宗布教策のなかで寛永元年(一六二四)白崎郷に法輪山妙経(みようきよう)寺が創建され、改宗が強いられたという。江戸時代は大村領の内海(うちめ)に属し、枝村に白似田(しらにた)村・平原村がある。 下岳村しもだけむら 熊本県:八代郡泉村下岳村[現在地名]泉村下岳矢山(ややま)岳(八六九・四メートル)の北西にあり、本村の北西部を流れる氷(ひ)川との間に各小村が散在している。慶長国絵図に下嶽村とみえ、近世種山手永に属した。「国誌」は「本屋敷村尾ノ上村塩平村白木平村譲葉村麻生村松原村瓜生野村犬山村庵平村古屋敷村深無田村六地蔵村宮村土生村小鹿倉村中尾村定野村竿ノ牟田村矢山村等ノ小村アリ」と記す。柿迫(かきざこ)村・栗木(くりき)村、河俣(かわまた)村(現東陽村)とともに「四浦在」の一つである。しかも四浦(ようら)在のうちで、小川(おがわ)町(現下益城郡)・宮原(みやはら)町(現宮原町)に最も近く、とくに五箇庄(ごかのしよう)にとって重要な地域といえよう。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by