大串村
おおくしむら
[現在地名]西彼町大串郷・平山郷など
現西彼町域の西部に位置し、東部は内海(大村湾)に臨む。北に針尾瀬戸がある。西から南にかけて風高峰・日ノ坂山・樫井岳が連なり、南西部に仏河内池がある。中世の遺構を残す城の峰城跡・鳥加城跡がある。慶長八年(一六〇三)八月、大村を訪れたイエズス会の司教ドン・ルイス・セルケイラは郡(現大村市)を経て彼杵(現東彼杵町)から舟に乗って内海地区のUcuniに赴いているが、これは当地と推定される(アフォンソ・デ・ルセナの回想録)。江戸時代は大村領の内海のうちで、当村に属する島は五〇余を数える。内海で最も広域の村である大串村はその島々と枝郷を含めた総称であり、枝郷などを除いた狭義の大串村は三町分村をいう。海沿いの往還筋に一里山が置かれていた(慶安二年肥前国道法帳)。
〔大串村〕
慶長高帳では蔵入地のほか、庶家一門一人をはじめ、大村給人一人・小姓衆一人の知行地があった。慶長一〇年の大村領内高目録に大串村とみえ、高五七七石余で、田四四町五反余・畠一一町、物成三一七石余。また竹ノ中山・三町分が記される。同一七年の総検地では高七五二石余と打出されるが(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高は五七七石余とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)。
大串村
おおくしむら
[現在地名]吉見町大串
現吉見町の南部、市野川左岸の低地にあり、集落は旧荒川筋の自然堤防上に発達、この自然堤防(長く連なる高い所)が地名の由来であろう。西は前河内村、東は荒子村、南は市野川を隔てて比企郡下小見野村(現川島町)。小名に応生寺・光楽寺通・宿通・登戸・上宿・下宿・寺家通・台山がある(風土記稿)。古くは大串郷とよばれ、家綱(江綱)や銀屋(現在の大字上銀谷・下銀谷)・窪田(久保田)なども大串郷のうちであった。横山党に属したとされる武士大串氏の名字の地で、村の東方、現在の市野川堤の外に大串重親の陣屋跡と称される地があるなど、大串氏にかかわる遺跡も多い。また地内には板碑も多く、現吉見町域では最古のものとされる貞永二年(一二三三)銘の阿弥陀三尊板碑をはじめとして鎌倉期のもの四基、南北朝期のもの一一基、室町―戦国期のもの四基が確認されている。
「平家物語」巻九には寿永三年(一一八四)宇治川の先陣争いで、烏帽子親の畠山重忠に助けられた大串次郎重親の名がみえる。
大串村
おおくしむら
[現在地名]常澄村大串
東茨城台地の北部にあり、水戸から鹿島への街道が通る。東は飯島村。縄文時代の原遺跡や前方後円墳を含む金山塚古墳群、大串古墳があり、向山には奈良時代の集落遺跡がある。「常陸国風土記」の那賀郡の項に
<資料は省略されています>
との説話があり、この大櫛の岡は当地に比定される。
暦応三年(一三四〇)の恒富村公田注文写(吉田薬王院文書)には「大串 公田八町」とある。近世は水戸藩領に属し、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「大串村」とみえる。
大串村
おおくしむら
[現在地名]奈留町大串郷
相之浦村の西に位置し、南は奈留瀬戸に続く大串浦に臨む。同浦の南西に皺ノ浦がある。東に早房山があり、北側に野首・早房のやや広い入江がある。早房山を中心に江上・西江上・大串・夏井・熊高の集落がある。地内に室町期の五輪塔が数基残る。弘安三年(一二八〇)一一月二五日の百姓等連署起請文案(青方文書)に峰湛の代官としてみえる「をうくしの小二郎」は当地の者の可能性がある。これは峰氏と青方氏の相論で浦部島のうち「をうくし」の百姓らが守護所から尋問を受けた際のもので、よしもり・よしさた・さたやす・さたみつ・くになからが署名している。
大串村
おおくしむら
[現在地名]大崎町大串
大崎上島の西端に位置し、南は山を負って明石方村(現木江町)と境し、東は原田村・大崎中野村に接し、北は海に面する。もと原田村の一部であったが、寛永一五年(一六三八)分村した(原田村の「国郡志下調書出帳」)。同年の大串村地詰帳(大崎町教育委員会蔵)によると田畠・屋敷・塩浜畝数一〇町六反余、高一五〇・五石、うち塩浜は六反一畝余、ぬい数三六、高一四・四石。ほかに当時ぬい数一二の荒浜があった。
元禄一三年(一七〇〇)大串・原田両村の入会場所である瀬井谷沖に田畠畝数三町一反余の新開が築調され、うち一町五反余が大串分になり、竿入れは宝暦一〇年(一七六〇)に行われた(大崎町史)。
大串村
おおくしむら
[現在地名]下妻市大串
大宝八幡神社の参詣路にあり、北は大宝村、東は横根村。「将門記」に「其ノ四日ヲ以テ、野本・石田・大串・取木等ノ宅ヨリ始メテ、与力ノ人々ノ小宅ニ至ルマデ、皆悉ク焼キ巡ル」とあり、平将門に敵対する源護一族の陣営が置かれた当地は将門によって焼払われている。中世は下妻庄に属し、永享七年(一四三五)八月九日の富有注文(続常陸遺文)に「下妻庄内、大串郷 記藤四郎 成田安保両人知行」とある。のち多賀谷氏の支配下に入るが、慶長七年(一六〇二)天領となり、土井利益(のち古河藩主)領を経て、旗本領となる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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