下村正太郎(読み)しもむら・しょうたろう

朝日日本歴史人物事典 「下村正太郎」の解説

下村正太郎(7代)

没年:文久1.12.28(1862.1.27)
生年享和3(1803)
江戸後期の商人。号は正篤。下村家一族の柳馬場家の子として京都に生まれ,文化9(1812)年,6代正立の跡を継ぎ下村家の当主となる。下村家は屋号大丸屋,大文字屋の呉服商で,当主は業祖の正啓以来彦右衛門を襲名するが,4代彦右衛門による「大丸騒動」後,正太郎を名乗るようになった。7代正篤は,それまでの京都本店,江戸店を中心とした呉服,小間物商売に加え,大坂両替店創設。京都でも両替業を店舗として独立させ,両替業を本格化した。また兵庫外商だけを扱う店を設け,江戸でも糸扇店を創始し,生糸の取り扱いを始めている。化政期の下村家の商業活動の拡大,発展は正篤の才覚の下に実現したといえる。幕末維新期には営業活動が停滞的となるが,10代正太郎(正堂)は維新政府の下で商法司元締,東京為替会社の総頭取などを務めた。11代正太郎(正剛)のときに合資会社,さらには株式会社に改組,戦後に至っている。<参考文献>『大丸三百五拾年史』

(谷本雅之)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「下村正太郎」の解説

下村正太郎(7代) しもむら-しょうたろう

1802-1862* 江戸時代後期の商人。
享和2年生まれ。柳馬場家下村春坡(しゅんぱ)(兼邦)の第5子。文化9年下村家宗家(大丸屋)7代をつぐ。呉服商にくわえ,京都,大坂に両替店,兵庫に外商店,江戸に糸扇店をひらき,事業を発展させた。天保(てんぽう)13年名古屋正金融通方世話人となる。文久元年12月28日死去。60歳。京都出身。名は兼啓。号は正篤。

下村正太郎(10代) しもむら-しょうたろう

1853-1889 明治時代実業家
嘉永(かえい)6年生まれ。明治元年大丸呉服店本家10代をつぐ。京都の富豪のひとりとして,発足まもない新政府に多額の献金をおこなう。2年東京為替会社設立時に,三井高福(たかよし),小野善助らとともに総頭取となる。明治22年6月23日死去。37歳。京都出身。本名は兼篤。号は正堂。

下村正太郎(12代) しもむら-しょうたろう

1927-2007 昭和後期-平成時代の経営者
昭和2年11月20日生まれ。昭和26年三菱銀行にはいり,ニューヨーク支店などに勤務。40年大丸に入社し,ただちに取締役。52年副社長,59年社長,平成9年会長。大丸の創業者下村彦右衛門からかぞえて12代目。平成19年5月13日死去。79歳。京都出身。阪大卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の下村正太郎の言及

【大丸[株]】より

…関西を地盤とする百貨店。本社大阪市南区。創設者下村彦右衛門正啓(1688‐1748)は,1717年(享保2)に京都伏見に呉服店大文字屋を設け,さらに大坂,名古屋に出店を開き,京都に仕入店を開いた。36年(元文1)には京都東洞院舟屋町に総本店を置き,染色を行う紅店を傘下に収めたうえ,43年(寛保3)に江戸大伝馬町三丁目に出店を開設した。その後,金物店や両替店なども設け,三都および名古屋でその豪富を誇った。…

※「下村正太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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