改訂新版 世界大百科事典 「大丸」の意味・わかりやすい解説
大丸[株] (だいまる)
関西を地盤とする百貨店。本社大阪市中央区。創設者下村彦右衛門正啓(1688-1748)は,1717年(享保2)に京都伏見に呉服店大文字屋を設け,さらに大坂,名古屋に出店を開き,京都に仕入店を開いた。36年(元文1)には京都東洞院舟屋町に総本店を置き,染色を行う紅店を傘下に収めたうえ,43年(寛保3)に江戸大伝馬町三丁目に出店を開設した。その後,金物店や両替店なども設け,三都および名古屋でその豪富を誇った。下村一族の者が主家を継ぎ,4代まで彦右衛門を称したが5代以降は正太郎を名のり,本店の店名前もそれであった。各店はそれぞれ異なった店名前を持ち,江戸店は大丸屋正右衛門であった。下村家は3軒に分かれ,担当店が定められており,本家が本店や仕入店,江戸,大坂,尾州の諸店を所管し,扇子地紙商である京都松原店と金物店は伏見家,紅店は長者町家が管轄した。3家は担当店の元方に資金を下ろし,各店の頭分が主人とともに毎月元方寄合を開いて経営方針を定めたが,71年(明和8)には三店元方の上に〈大元方〉を置いた。81年(天明1)には絹店の創設に際し,柳馬場家を立て,下村家は4家となった。大元方は三井のような統轄機関とはいえず,各元方は独立採算制であったが,出資やそれに対する利息・上納銀は大元方に集約されることになった。呉服店として著名となった江戸店は,呉服,木綿,真綿など各種の問屋仲間に加入したが,1853年(嘉永6)には小間物問屋の株を取得し,その名目で生糸仕入れを始め,糸問屋仲間と紛糾を生じ,その結果小間物問屋仲間が一括して糸問屋仲間に加入する結果となった。また,京都,大坂では本両替,掛屋として両替商としても大をなし,江戸では呉服店が銭両替を兼業した。明治維新に際しては,当主が商法司や為替会社の要職に推されている。
執筆者:林 玲子 明治維新後は1908年に,それまでの個人経営から,株式合資会社大丸呉服店となり,東京店を本店,京都,大阪,名古屋の各店を支店とした。しかし10年には東京店,名古屋店を閉鎖し,京都店を本店として,関西での事業に力を注いだ。この時,販売方式を座売から陳列式にし,近代的百貨店の形をとった。その後14年には合資会社大丸呉服店となるとともに,大阪店が本店となった。20年には(株)大丸呉服店となり,22年には百貨店業界として最初の週休制度(月曜)を採用した。28年に(株)大丸となった。第2次大戦後は54年に東京駅の八重洲口鉄道会館ビルを借りて東京店とし,念願の関東進出を果たした。以後全国に店舗を展開している。直営店は心斎橋,東京,京都,大阪梅田など7店だが,大丸が資本の大部分を保有する関連会社の店舗が,高知,博多などにある。海外にも1960年に香港に現地資本と合弁で設立したのを皮切りに,パリ,リヨン,バンコク,シンガポールと同様の形で設立した。関連会社としては1951年に創業したスーパー部門の(株)大丸ピーコック(設立時は大丸食品工業(株)),ファッション専門店の(株)大丸マリエポール(1973創業)などがある。なお,1960年ころから百貨店として売上げが日本一だったが,現在は高島屋,三越に次いで第3位となっている(2004年度)。70年には名古屋に本拠をおく松坂屋と業務提携した。資本金203億円(2005年8月),売上高8107億円(2005年2月期)。
執筆者:岡田 康司
大丸[温泉] (おおまる)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報