下開発村(読み)しもかいほつむら

日本歴史地名大系 「下開発村」の解説

下開発村
しもかいほつむら

[現在地名]大垣市和合本町わごうほんまち和合新町わごうしんまち

揖斐いび川右岸、大垣輪中の東部に位置し、北は上開発村。「神鳳鈔」にみえる伊勢神宮領津布良開発つぶらかいほつ御厨の領域とされる。江戸時代を通じて大垣藩領。近世初期に開発村が上・下に分離したといわれる。慶長郷帳には「下かひほつ村」とみえ、村高六八八石余。正保郷帳では田高五三〇石余・畑高二〇九石余。村高の増加は、このとき以前に下新開しもしんがいと俗称される下開しもかい新田が開かれたことによるのであろう。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では下開発村五五六石余・下開新田一六七石余。

下開発村
しもかいほつむら

[現在地名]辰口町下開発しもかいはつ松が岡まつがおか緑が丘みどりがおか旭台あさひだい

上開発村の西に位置する。同村とともに中世開発庄として推移。慶長三年(一五九八)九月二四日の丹羽長重知行宛行状(県立歴史博物館蔵)によると、平井伊兵衛に「下開発村内」で高二五石余などが与えられている。江戸時代を通じて加賀藩領であったが、寛永一六年(一六三九)から万治二年(一六五九)までは富山藩領。正保郷帳によると高七〇〇石余、田方三四町一反余・畑方七町。

下開発村
しもかいほつむら

[現在地名]高岡市千鳥丘町ちどりがおかまち・下開発

笹川ささがわ村の東、新又あらまた川と祖父そふ川の間に位置。北は立野たての町。元和五年(一六一九)の家高新帳では中保村組に属して村名がみえ、役家数二。正保郷帳では高一四三石余、田方九町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印による草高一六一石・免四ツ二歩(三箇国高物成帳)。延宝四年(一六七六)の役家数六、肝煎は九郎兵衛(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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