日本歴史地名大系 「中下村」の解説 中下村ちゆうげむら 和歌山県:橋本市中下村[現在地名]橋本市隅田(すだ)町中下芋生(いもう)村の西、紀ノ川右岸の河岸段丘にあり、東西に大和街道が通る。中世は隅田庄に属し、弘安二年(一二七九)正月一日の隅田八幡宮朝拝頭人差定(隅田家文書)に「中下」とみえる。慶長検地高目録によると村高一〇九石余、小物成五斗五升四合。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では家数二九(本役八など)、人数一四七、牛一三、小物成は紙木二束、桑一束、茶一二斤。 中下村なかしもむら 滋賀県:彦根市旧愛知郡・神崎郡地区中下村[現在地名]彦根市金沢町(かなざわちよう)野部(のべ)村の北東、宇曾(うそ)川左岸に位置。天正一九年(一五九一)五月の愛知郡蔵入目録(芦浦観音寺文書)に村名がみえ、四〇〇石余が豊臣秀吉の直轄領として代官観音寺詮舜の管理下に置かれた。慶長高辻帳では高四一七石余。江戸時代を通じて彦根藩領。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば人数一八七、うち寺社方四。 中下村なかしたむら 青森県:西津軽郡鰺ヶ沢町中下村[現在地名]鰺ヶ沢町中村(なかむら)町中村川に沿い、東は山、西は中村、北は館(たて)村、南は別所(べつしよ)村に接する。貞享元年(一六八四)の郷村帳に高二四・三石とあり、同四年の検地帳に村高一三七・三二八石、うち田方一三一・三七一石、畑方五・九五七石とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by