中峠村(読み)なかびようむら

日本歴史地名大系 「中峠村」の解説

中峠村
なかびようむら

[現在地名]我孫子市中峠・湖北台こほくだい一丁目・同三―八丁目・中峠村下なかびようむらした中峠台なかびようだい

都部いちぶ村の北東にあり、北部は大きく南に蛇行する利根川(現古利根沼)が東流する。集落は南を通る成田方面に至る道沿いに細長く続き、都部村に近い集落を上区、日秀ひびり村側を下区と二分されるが、上区の北に上新田かみしんでん、下区の北に下新田という小集落が営まれる。利根川に近い芝原しばらは古く中相馬なかそうま総称で、当地本郷であったことから地名として残ったとされ、のち中峠が公称となるに伴い俗称地名になったという。芝原には中峠城とよぶ中世城跡があり、三郭が東西に連なる遺構が想定されている。その東をしも根古屋ねごや、西を上根古屋と称し、同城関連の集落を想定しうる。「本土寺過去帳」に「二十八日 道悦 中峠河村石雲斎 天正十七己丑三月」とある。中峠が地名か否か確定できないが、当地には天文二年(一五三三)河村出羽守が氏寺法岩ほうがん院に寄進したと伝える懸仏が地区の年番持回りで保存されている。当地には暦応年間(一三三八―四二)から天正九年(一五八一)にかけての武蔵型板碑が散在する。天正一八年の徳川家康の関東入国に伴い新設された佐竹さたけ道沿いに芝原からの移住が進み、東の布佐ふさ村などと同様に宿継ぎを勤めていたという。


中峠村
なかのとうげむら

[現在地名]小松市中ノ峠町

滓上かすかみ川の最上流に位置し、西はあらし村・上麦口かみむがくち村、東は山を越えて別宮べつく(現鳥越村)に通じる。「なかのとぎ」とも発音する。正保郷帳では高一一六石余、田方三町・畑方三町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高六七石、免六ツ、小物成は山役三九六匁(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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