中荒井村(読み)なかあらいむら

日本歴史地名大系 「中荒井村」の解説

中荒井村
なかあらいむら

[現在地名]田島町中荒井

新町あらまち村の西、永田ながた村の南に位置し、北東流する荒海あらかい川の東岸段丘上に立地。端村に油燈ゆどう小桂こかずらがある。下野街道通り、小桂峠を越えて栗生沢くりゆうざわ村へ通ずる道がある。長沼三郎左衛門常則が築き、慶長年中(一五九六―一六一五)渡部左京助が住したと伝える館があった(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がみえ、高四二四石余。南山御蔵入領川島組に属する。


中荒井村
なかあらいむら

[現在地名]練馬区豊玉上とよたまかみ一―二丁目・豊玉北とよたまきた一―六丁目・豊玉中とよたまなか一―四丁目・豊玉南とよたまみなみ一―三丁目

千川せんかわ上水の南に沿い、多摩郡境に位置。清戸きよと(現清瀬市)に至る道(清戸道)が通る。東は上板橋村(現板橋区)・多摩郡江古田えごた新田、西はなか村、北は下練馬村、南は多摩郡江古田村(現中野区)。中新井とも書く。北条氏所領役帳に森新三郎知行分として 「江戸廻中新居」とみえ、江戸衆森新三郎が伊豆衆の吉原小八郎から当地を一四貫五〇〇文で買得している。


中荒井村
なかあらいむら

[現在地名]北会津村伊和保いわほ

阿賀川西岸にあり、北は下荒井村、西は今和泉いまいずみ村。応永一八年(一四一一)一〇月一一日の沙弥某寄進状(新編会津風土記)に「門田中荒居内三所宮事」とあり、中荒井村などが融通ゆつう(現会津若松市)に寄進されている。沙弥某を「会津旧事雑考」は蘆名盛政とするが、花押の形状が異なっており、不明。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高四六五石余。寛文五年(一六六五)の「万改帳大沼郡中荒井組」では本田高四九四石余・新田高三三石余、免七ツ六分三厘余、家数七九・竈九九、男二五〇・女二〇三、馬五一。


中荒井村
なかあらいむら

[現在地名]大野市中荒井・中荒井一―三丁目

大野城下の東北部に接し、北は中野なかの村、東は中挟なかばさみ村。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、石高は二六二八・七四九石であるが、これは正保郷帳にみえるなか村・中津川なかつがわ村・新在家しんざいけ村も含み、近世初期にこの四村に分村したと推定される。なお同帳によると中荒井村は田方七七四石余・畠方九一石余。明和七年(一七七〇)の中荒井村年貢免状(長谷川家文書)によると、年貢率は毛付高に対し三ツ九分五厘、本高には三ツ九分三厘余であった。


中荒井村
なかあらいむら

[現在地名]福井市中荒井町

下荒井村の南にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では荒井之郷に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、同帳によると田方九五石余・畠方一一〇石余。福井藩領。

越前国名蹟考」によると往還一里塚があり、「村より北道の左右に在。上は鳥羽、下は福井木田迄」と記す。当村は浅水あそうず川と大土呂おおどろ川に挟まれていたため、常に水害を被った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android