日本歴史地名大系 「中野林村」の解説 中野林村なかのはやしむら 青森県:西津軽郡木造町中野林村[現在地名]木造町濁川(にごりかわ)田圃を隔てて東に濁川村、北東に新屋敷(あらやしき)村、南に下中館(しもなかたて)村。天和三年(一六八三)の広須御新田所図に「中ノ林」とある。享保一二年(一七二七)木造新田に属し、木造通三五ヵ村の一つで村位は下とある(平山日記)。元文元年(一七三六)の検地帳によれば、田畑屋敷合せて二〇町七反七畝二〇歩、村高一四一・一七三石とある。うち田方は一九町六反一畝二七歩で一三七・三三五石、上田から下々田まで設定され、上田が五反七畝四歩、六・二八五石にすぎず、中・下・下々田はほぼ同面積である。 中野林村なかのばやしむら 埼玉県:大宮市中野林村[現在地名]大宮市中野林東西に長い村域を荒川筋の三列の自然堤防が南北に通り、北隣の飯田(いいだ)村、南の植田谷本(うえたやほん)村・三条町(さんじようまち)村に続く。村の中心集落や寺院などは自然堤防上にある。田園簿によると高三〇七石余、反別は田二四町四反余・畑一七町九反余、三〇〇石が旗本加藤領で、七石余が幕府領。元禄三年(一六九〇)検地が行われた(風土記稿)。幕末まで加藤領は変わらず(国立史料館本元禄郷帳・改革組合取調書など)、享保年間(一七一六―三六)開発された八貫野(はちかんの)新田の当村持分が幕府領になり、寛政八年(一七九六)の足立郡村々高辻帳(都築家文書)では高三八石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by