濁川村(読み)にごりかわむら

日本歴史地名大系 「濁川村」の解説

濁川村
にごりかわむら

[現在地名]上磯郡上磯町字清川きよかわ

近世から明治一四年(一八八一)まで存続した村。函館平野西端の戸切地へきりち川左岸にある。地名はかつて大きく川幅を広げてくねっていた現在の御手洗みたらい川の「夷語クン子ベツなり、則、濁川」(地名考并里程記)を意訳したものに由来する(「蝦夷日誌」一編)

近世は東在箱館付村々のうち。天保郷帳には「従松前東在」として「濁川村」とある。享保二年(一七一七)の御巡見使御下向ニ付キ申合覚(市立函館図書館蔵)によれば、元禄郷帳作成後に新たに成立した集落として濁川、文月ふみづき(現大野町)があげられており、この頃までには有川ありかわ村から大野おおの(現大野町)に抜ける道に村々が開かれていたようである。


濁川村
にごりかわむら

[現在地名]庄原市濁川町、比婆郡口和くちわ湯木ゆき

西城さいじよう川と比和ひわ川の合流点を中心に、比和川のつくった谷の両岸に発達した村。恵蘇えそ郡南部に位置し、西は永田ながた(現比婆郡口和町)、東は門田もんで村に接する。

中世にはじび庄に含まれ、地頭山内氏が戦国大名として山陰の尼子氏と対立した時期には、山内氏の拠点甲山こうやま城の北方にあたる濁川は戦略上の重要地となり、甲山城北方約三キロの小倉おぐら(四二〇メートル)に小倉山城が築かれた。平地部との標高差が約二〇〇メートルある険しい山の頂は、さほど広くないが北側に空堀を設け、石垣も数ヵ所残る。


濁川村
にごりかわむら

[現在地名]小坂町小坂 濁川

鹿角郡北部、南流する小坂・相内あいない両河川の交わる辺りに位置。北上して清水しみず峠(坂梨さかなし峠)から津軽へ抜ける道が縦断する。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出る。

近世初期の「鹿角郡由来記」に「濁川村 濁川但馬領知 本名秋元 館有」とあり、中世後期には開村していた。集落南側の烏帽子えぼし山北麓に中世館跡があり、単郭状平坦面と空堀などを残す。


濁川村
にごりかわむら

[現在地名]秋田市濁川

いずみ村の半里北、あさひ川河岸を離れた山麓に開ける。濁川の地名は、「此沢ヨリ流ルル水四季共ニ澄コトナシ」(秋田沿革史大成)とも、北部山地の濁川油田の原油が流出するためともいわれる。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「にこり川村」とあり、太閤蔵入地となっている。慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)に濁川村の名がみえる。濁川西側の山地に穴堰あなせきを開削している(→穴堰

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に二〇一石とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に家数三五軒とあり、支郷は「先年御田地切開仕候、家員七軒」の中野目なかのめ村であった。


濁川村
にごりかわむら

[現在地名]木造町濁川

田圃を隔てて西に中野林なかのはやし村、南西に下中館しもなかたて村、南東に下木作しもきつくり村。

天和三年(一六八三)広須御新田所図に「にごり川」とある。享保一二年(一七二七)木造新田に属し、木造通三五ヵ村の一つで村位は下とある(平山日記)。元文元年(一七三六)検地帳によれば、田畑屋敷合せて一七町二反四歩、村高一一九・七三四石とある。うち田方は一六町五反四畝一〇歩で一一六・〇一六石、上田から下々田まで設定され、上田が一町八反九畝一四歩、二〇・八四一石にすぎず、中・下・下々田がほぼ同面積である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android