日本大百科全書(ニッポニカ) 「丸目蔵人佐」の意味・わかりやすい解説
丸目蔵人佐
まるめくらんどのすけ
(1540―1629)
近世初頭の剣術家、タイ捨流の始祖。名は長珍(ながよし)、のち石見守長恵(いわみのかみながやす)と改め、隠居後は石見入道徹斎(てっさい)と号した。肥後国球磨(くま)郡人吉(ひとよし)(熊本県人吉市)の相良壱岐守(さがらいきのかみ)の家臣で、幼少より剣術を好み、14歳のとき父与三右衛門(よさえもん)に従って島津氏との合戦に初陣の功をあげ、ついで天草本渡(あまくさほんど)城主天草和泉(いずみ)守のもとで諸流の修行を積み、1559年(永禄2)20歳、京を目ざして廻国(かいこく)修行に出立し、65年上洛(じょうらく)中の上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)秀綱に入門して頭角を現し、師が将軍足利義輝(あしかがよしてる)の求めで新陰(しんかげ)流兵法を上覧に供した際、その打太刀(うちだち)を勤め、67年28歳で皆伝を受け、西国における同流の指南を一任された。帰国後、新知170石を領し、相良家中諸士の剣術師範に任じ、弟の丸目寿斎(じゅさい)をはじめ木野(きの)九郎右衛門、神瀬(かんぜ)軍助、小田(おだ)六右衛門らの名剣士を養った。75年(天正3)ころ、師伝に自ら考案した真剣の勝味(かちみ)を加え、流名を新陰タイ捨からタイ捨と改め、人吉藩を中心に、肥前佐賀、筑前(ちくぜん)柳川(やながわ)など、九州一円の諸藩にこれを広めた。彼は多芸であって各種武技20余流に通じ、書は青蓮院宮(しょうれんいんのみや)流をたしなんだ。晩年は一武(いちぶ)村(球磨郡錦(にしき)町)の切原野に隠棲(いんせい)し、田畑の開墾にあたった。
[渡邉一郎]