久志間切
くしまぎり
現在の名護市南部および東村一帯にあった間切。国頭方に属する。南西は金武間切、西は名護間切、北は羽地間切・大宜味間切、北東は国頭間切に接し、南は太平洋に面する。首里から久志間切番所のある瀬嵩村まで一四里一五町余(里積記)。「球陽」「琉球国旧記」などには久志郡・久志県ともみえる。古琉球期は名護間切および金武間切に含まれる。「おもろさうし」巻一三の一三〇に「くしのまえかねく」とみえる。間切名は久志村から名付けられたが、「くし」の意味については、(一)砂浜を前にして湾曲している集落の地形が櫛に似る、(二)海岸に対してクシ(背面)に位置する、(三)西海岸の名護のクシ(背面)にあたる、(四)山脈とゆったりした海岸線の地勢を示す、(五)クシ(後)は腰で山の麓とする、などの諸説がある(久志誌)。
〔間切の創設と所属村の変遷〕
康熙一二年(一六七三)名護間切から一〇ヵ村、金武間切から二ヵ村を割いて久志間切が創設され(「球陽」尚貞王五年条)、当初は久志・辺野古・大浦・瀬嵩・汀間・安部・嘉陽・天仁屋、有銘・慶佐次・平良・川田(現東村)の一二ヵ村で構成された。康熙三四年には金武間切の古知屋村(現宜野座村)を久志間切に、平良・川田両村を大宜味間切に組替えたが、各村とも便利にならず、同五八年に各村の申請を受けて元に戻された(「球陽」尚敬王七年条)。乾隆元年(一七三六)北部に大鼓村(現東村)が新設され(「球陽」尚敬王二四年条)、乾隆四六年に富久地村、嘉慶二二年(一八一七)には宮城村と改称した(同書尚穆王三〇年条・尚
王一四年条)。これにより、近世末の久志間切は一三ヵ村であった。
〔惣地頭と間切番所〕
久志間切創設に際し、惣地頭職は尚経(豊見城王子朝良)と顧思敬(久志親方助豊)に与えられた(「球陽」尚貞王五年条)。両惣地頭は康熙二七年に観音石像を久志村に請来し、宮を創建した(同書尚貞王二〇年条)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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