久志村
くしむら
[現在地名]坊津町久志
車岳(三五六・八メートル)を境として坊泊郷泊村の北に位置する。北は陣ノ尾(四六三メートル)・今岳および鶴喰崎を境に加世田郷大浦村(現大浦町)に接し、西は海に面する。今村から宮崎が突出し、久志湾と北西の末柏湾を分ける。久志湾の北に今村浜、南に博多浦があり、車岳の西に泊浦に面した丸木浦(現在の丸木浜)がある。泊村から秋目村へ通ずる往還道が海岸を走り、久志湾の大久志川河口付近で同川沿いを加世田郷津貫村(現加世田市)へ抜ける往還道を分岐する(元禄国絵図など)。同川上流に上野集落がある。なお現在の地図上では久志湾は久志浦、末柏湾は末柏浦となっており、両浦の外海が久志湾とされている。
中世は加世田別符のうちに含まれる。延文六年(一三六一)四月二〇日の島津道春譲状(早稲田大学蔵下野島津文書)によると、道春(忠政)は「薩摩国加世田別符内、一山田・秋目・唐坊・久志・内浦」を子息の彦三郎公忠に譲与している。年未詳の加世田別符半分坪付注文(島津家文書)に、伊作島津氏の所領とみられる「くし」が載る。
久志村
くしむら
[現在地名]名護市久志・豊原
久志間切の南西端に位置し、西は金武間切古知屋村(現宜野座村)。北から北西にかけて辺野古岳(三三二メートル)・久志岳(三三五・一メートル)・石岳(二三六メートル)の山地が連なり、標高一五〇メートル以下にはなだらかな丘陵地が広がる。これらの山地・丘陵地の水を集めて久志大川、オート川(久志川)が流れ、下流に沖積低地を造り、太平洋に注ぐ。集落は海岸線に沿って形成された砂丘と海岸低地に碁盤目状の形をして立地する。集落の故地は北のウィーザトゥ(上里原)で、近世に現在の場所に移動したとされる。村名が間切名と同じため、小久志の意味でクシグヮー(久志小)と通称される。「おもろさうし」巻一三の一三〇に「一 くしのまへかねく(久志の前兼久)/世もちとみ すたちへ(世持ち富〔官船の名〕を進水させて)/ともゝすゑ のりふさい しよわちへ(十百〔一千年〕末までも乗り栄えしたまいて)/(中略) 又 たけたけのかみや(嶽々の神女は)/ゆまたちて まふら(夜も立って守ろう)」とある。
久志村
くうしむら
[現在地名]宇検村久志
宇検村の南東に位置し、集落は焼内湾に臨む。湾入口の北側にある枝手久島の過半部も村域とする。屋喜内間切宇検方のうち。「大島私考」には宇検方一四ヵ村のうちとして「久志村」とみえ、高二一石余、うち享保内検後の開地は三石余。枝手久島には村の主要な農耕地が開かれており、村民は板付船で往来することからおのずと造船技術に長けていたという。
久志村
くしむら
[現在地名]徳之島町下久志
井之川村の北西に位置し、集落は海に臨む。東間切井之川
のうちで、「三州御治世要覧」では東間切一二ヵ村のうちに「串村」とある。安政四年(一八五七)村では火災により家四二軒、砂糖二千一〇〇斤、尺筵四二枚を焼失しており、砂糖上納の免除を願出ている(徳之島前録帳)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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