久野村(読み)くのむら

日本歴史地名大系 「久野村」の解説

久野村
くのむら

[現在地名]小田原市久野・おうぎ町一丁目

西の久野山を源とする久野川が東南に向かって流れ、南西は伊張いはり山、北は府川ふかわ村、東は多古たこ村・穴部あなべ村、南は荻窪おぎくぼ村と接する。永正一六年(一五一九)の宗瑞(伊勢長氏)箱根領注文(県史三)に「十五くわん文 くのゝたうちやう分」、小田原衆所領役帳に幻庵「拾八貫九百文 西郡久野道場分」とある。「北条記」に「(荻)窪、久野の野辺にも茶屋あり」とみえる。

近世は小田原藩領。寛文一二年(一六七二)の村明細帳(県史四)によれば、集落は宿しゆく村・星山ほしやま村・留場とめば村・坊所ぼうどこ村・欠上かけのえ村・船原ふなはら村に散在し、百姓家数二一〇、久野山から伊張山へかけて藩御林七ヵ所、御家中御林一〇ヵ所、百姓内林一九九ヵ所に及ぶ。


久野村
くのむら

[現在地名]菊川町大字久野

西北から東南にかけて流れる田部たべ川の支流久野川流域に沿う細長い谷間の村落で、西方に勝陣しようじん山、東南方に六万坊ろくまんぼう山を望む。東方から北方は宗清むねきよ山などの村内小山脈にさえぎられる。東は貴飯きば楢崎ならざきの両村、北と西は川棚かわたな(現豊浦町)、南は内日下うついしも(現下関市)である。長府藩領と清末藩領の入会地。

内藤小源太家文書(「閥閲録」所収)の「防長之内隆春分領惣田数辻之事」(年号不詳)のなかに「一、豊東郡之内参町五段 玖野畑」とみえ、慶長五年(一六〇〇)検地帳以降は久野村と記される。

村名の由来を「地下上申」は「往古平野下野と申牢人侍当所ニ居住被仕、又下野家来ニ高安兵部森定・浅尾斎宮定光・曾我将監宗清・藤岡丹後兼定・岡山源吾国房・池田肥前成宗・山県舎人末森・島津左近則宗・大野大学末実と申仁九人有之候処ニ、下野死去已後右九人之面々当村田畠ニ開作仕、已後百姓ニ相成送渡世ヲ居被申たるよし、此故を以当村を久野と申習シ候よし地下人申伝候」と記す。


久野村
くのむら

[現在地名]牛久町久野

かつら川と乙戸おつと川に挟まれた舌状台地にあり、東は桂村。永禄二年(一五五九)観音かんのん寺棟札に「信太庄久野郷中根村」とあり、同寺は岡見氏の家臣で久野城主であった野口信久が造営している。天正年間(一五七三―九二)には江戸崎城(現江戸崎町)城主土岐氏の支配下に入り、同五年の観音寺棟札には「大檀那当地頭土岐大膳大夫治英」の名がある。江戸初期に鳥羽藩領となるが(寛文朱印留)、延宝八年(一六八〇)下総関宿藩領となる(寛政重修諸家譜)


久野村
くのむら

[現在地名]粟野町久野

小倉おぐら(思川)右岸にあり、南は深程ふかほど村、北対岸は口粟野くちあわの村。慶安・元禄・天保の郷帳には久能村と記される。中世には久野郷として日光山領で、宇都宮重綱によって寄進されたという(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。もとは源頼朝によって宇都宮大明神に灯油料所として寄進され、同明神領であったとされる。慶安郷帳では田二八〇石余・畑四二一石余、壬生藩領。


久野村
ひさのむら

[現在地名]鹿央町千田ちだ

宮原みやばる台地の北端裾に立地し、北・西はみや村、南はひろ村、東は宮原村(現植木町)に接する。慶長一三年(一六〇八)の検地帳によると田四〇町二反三畝余・畠二四町七畝余・屋敷一九筆二町三畝余、分米六九六石五斗余、家数二〇・人数四〇、牛馬一二、柿木一二・柚一本。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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