桂村(読み)かつらむら

日本歴史地名大系 「桂村」の解説

桂村
かつらむら

[現在地名]関川村桂

西に嶽薬師だけやくし(薬師山)朴坂ほおざか山があり、東をあら川の支流おんな川が南へ流れる。村央を桂川が東流して女川に注ぐ。女川最下流の村。中世には女川流域は荒河あらかわ保に含まれた。元亨三年(一三二三)八月七日付の同保地頭河村秀久譲状案(河村氏文書)によれば、女川の田畠・在家などが二分して政秀・秀遠に譲られ、また当村に属する「しもかつら」(下桂)・「さんわうのいり」(山王入)・「あしくらやま」(足倉山)および「かわのせ、うミのひきあミ」が嫡子政秀に一期を限って譲られ、政秀ののちは秀久の嫡孫たきわう丸へ譲与するようにと決められている。観応二年(一三五一)九月二〇日の河村秀継譲状(同文書)には女川の弥八か名田・藤太三郎か名田などが秀継の知行分として記され、「しもかつらのあしくら山」は峰はくろくら(黒倉)、山口はたうのさわ(塔の沢)をもって二分し、東方は弟たきつる丸に、西方は兄へ譲るとある。


桂村
かつらむら

[現在地名]吉田町桂・下入江しもいりえ上入江かみいりえ

北西の高野こうや村を囲むように位置し、西から流れ込んだ可愛えの川が村の東南で大きく北に向きを変えるが、その対岸の下入江村のなかに宮本みやもと中束なかつか石原いしわら横見よこみ十念じゆうねん尺地しやくち五升代ごしようだいなどの飛郷がある。洪水で可愛川の流路が移動し、村を分けたものか。また上入江村南にある飛郷横山よこやま志路しじ(現広島市安佐北区)と隣接し、桂氏の同族志道氏の本拠に通ずる要路として確保された地であろうか。「芸藩通志」に「広十五町余、袤四町、北は嶮なり、其他は地開けて平田なり、大川南辺を通ず」とある。

古くは内部うちべ庄内に属し、のち鎌倉時代に備後国守護とされた長井(永井)氏の分派が領知し、在名によって桂氏を称した。


桂村
かつらむら

[現在地名]戸塚区桂町

東から南にかけて公田くでん村と錯雑して上野かみの村・中野なかの村に連なる。南は公田村と交雑して上野村飛地および今泉いまいずみ(現鎌倉市)、西は今泉村・岩瀬いわせ(現鎌倉市)笠間かさま村、北西は小菅谷こすがや村、北は公田村・鍛冶かじ村・上野村・中野村などの飛地と錯雑し、北東隅はわずかに鍛冶ヶ谷村に連なる。荒井沢あらいざわ川が南方から発し、公田村と入会の地を北流する。いたち川が東南から西に流れる。鎌倉道が岩瀬村から字上耕地かみこうちを経て鍛冶ヶ谷村に通じる。


桂村
かつらむら

面積:四五・九二平方キロ

東茨城郡の西北部に位置し、北は御前山ごぜんやま村、西は西茨城郡七会ななかい村、南は常北じようほく町に接し、東は那珂川を隔てて那珂郡大宮町に対する。東側を北西から南東に流れる那珂川に沿った北部と東部は平坦地が多いが、西部は八溝やみぞ山系の鶏足とりあし山塊に属する丘陵性の山地帯で、高取たかとり(三五五・九メートル)住谷すみや(三〇八メートル)津室つむろ(三二〇メートル)まゆ(二七五メートル)はく(二一三メートル)御前山などがある。


桂村
かつらむら

[現在地名]上平村桂

庄川の支流さかい川の上流山間に位置し、対岸は飛騨国白川しらかわ加須良かずら(現岐阜県白川村)。かつてはカズラともよび、この両カズラ村は一村のように共同体をつくってきた。下流の打越うちこし村まで二里八町(村々道程駄賃付「十村宅左衛門覚書」寿川区有文書)。ほかにブナオ峠から加賀金沢へ通じる道と白川郷へ山越えに抜ける蓮如れんによ峠道があった。昭和四六年(一九七一)廃村となり、平成五年(一九九三)一〇月境川ダム(通称桂湖)の完成とともに水没した。

砺波となみ市山田家蔵の永正一四年(一五一七)五月二五日の年紀をもつ阿弥陀如来絵像裏書に「利波郡赤尾之内葛村」とある。


桂村
かつらむら

[現在地名]茂原市桂・桂飛地かつらとびち

柴名しばな村の北に位置し、南西部は丘陵となっている。現大網白里おおあみしらさと南麦台みなみむぎだい遺跡では七世紀から一〇世紀にかけての住居跡が検出されているが、「葛」と記された墨書土器も出土しており、桂の地名に継承された可能性が指摘されている。現神奈川県鎌倉市円応えんのう寺が所蔵する奪衣婆像に永正一一年(一五一四)八月吉日在銘の胎内墨書銘があり、「正忠は此年総州桂へ越候而留す也」と記されるが、桂は当地をさすのであろうか。


桂村
かつらむら

[現在地名]上野市桂

大滝おおだい村の南。標高約二五〇―二八〇メートルの山中の小集落。「兼右卿記」に永禄一一年(一五六八)「大滝九頭社神人」が出るが(→大滝村、この九頭くず明神は「伊水温故」が当村の氏神、「伊賀国誌」が「国津上大明神」として当村の氏神とする。「東大寺続要録」の尊勝院根本取領員数のなかに康保年間(九六四―九六八)置かれた荘園のうち「伊賀国 財良寺 同桂庄内国衙顛倒」とみえ、桂庄は転倒して国衙領になった意と思われる。


桂村
かつらむら

[現在地名]玉川町桂

桂川の流域に開けた村で、Y字形をしている。西方に釈迦しやか山がそびえ、それより北は鍋地なべじ村、西および南は御馬屋みまや村である。東は大野おおの三段地さんだんじ長谷ながたにの三村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項に「桂村 日損所、野山有、林少有」とみえ、村高は二六〇石六斗七升である。貞享元年(一六八四)の今治藩御改革領内調書では、田一九町、畑五町一反、人数二一六人。当時の小物成は馬札・松取銀・茶・請藪銀・古漆銀・新漆銀・御礼銭など計銀四七匁五分である(今治藩小物成)


桂村
かつらむら

[現在地名]牛久町桂

小野おの川の支流桂川右岸にあり、西は久野くの村。戦国期は江戸崎城(現江戸崎町)に拠った土岐氏の支配下にあったが、天正一八年(一五九〇)同氏は追放され、佐竹氏の一族蘆名氏の所領となる。慶長七年(一六〇二)佐竹氏は秋田に移封され、天領となるが、のち鳥羽藩内藤氏領となり、「寛文朱印留」に村名が載る。延宝八年(一六八〇)下総関宿藩領となり(寛政重修諸家譜)、以後幕末までその支配が続く。元禄郷帳の村高は四八七石余、幕末は関宿藩領五二六石余(各村旧高簿)。牛久宿の加助郷村で、文化二年(一八〇五)の助郷勤高は一一六石(「助郷差村被仰付御請書写」野口家文書)


桂村
かつらむら

[現在地名]今津町桂

北仰きとげ村の北西にある。かつて村中央に大きな桂の木があったための村名といわれる。枝郷に貫川ぬけがわがあり、古名を舟入ふないりといったという。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に桂村とあり、高四〇二石余。寛永石高帳に高六九〇石余とあり、五〇四石余は旗本佐久間権之助領、一八五石余は同佐久間長助領。慶安高辻帳では権之助領は田方三一六石余・畑方一八八石余、長助領は田方一一六石余・畑方六九石余。


桂村
かつらむら

[現在地名]七宝町桂

北は佐屋さや路を境に秋竹あきたけ村に連なる。「寛文覚書」に戸数七〇、人数四〇四とある。「徇行記」によれば、概高八九〇石八斗余はすべて竹腰山城守の知行地。田は三五町一反七畝余、畑は一九町八反余で、「村立大体ヨキ所ナリ、農業ヲ専ラ生産トシ、其内工商四、五人アリ、沙地ニテ竹木多ク又松・杉苗ヲ売出セリ」と記す。


桂村
かつらむら

[現在地名]弘前市小友おとも

岩木川に東面し、北は中畑なかはた村、南は種市たねいち村、西は小友村に接する。

貞享四年(一六八七)検地帳によれば、村高一九五・二六六石、うち田方一三九・四一七石、畑方五五・八四九石。田位は上田から下々田まであり、斗代は上田が一・三石と高い。村内に寺社も漆木もない。


桂村
かつらむら

[現在地名]能生町桂

寺山てらやま村の東、能生川河口の西岸、うろこ崎の段丘上に立地。村の西口に田中与右衛門という旧家があり、その家の北の角に桂の大木があったので家号を桂といい、村名ともなった。また村の西の山際に、中古大法だいほう院と称する真言宗の大寺があったので、大法院村とよんだこともあったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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