朝日日本歴史人物事典 「九条良通」の解説
九条良通
生年:仁安2(1167)
平安末期の公卿。九条兼実の嫡男。母は従三位藤原季行の娘。皇嘉門院の養子となる。侍従,右近中将,同大将などを経て,文治2(1186)年内大臣。九条家の後継者として将来を嘱望されたが,病がちで公事に参加できないことも多く,文治4年就寝中に22歳で急死した。これは父兼実に多大の衝撃を与え,日記『玉葉』の記録も中断,一時出家を考えたほどであったらしい。良通は和漢の才に秀で,兼実は「文章是得天骨,詩句多在人口」と記す。同母弟良経と共に頻繁に連句や詩に興じ,連句,詩会などを催すこと『玉葉』による限りでも約40回におよび,また詠歌も試みた。良経は兄の没後,夢の中で亡兄が六韻の詩を呈し,これに和せと示したという。<参考文献>久保田淳『新古今歌人の研究』
(田渕句美子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報