亀山藩〈丹波国〉(読み)かめやまはん

藩名・旧国名がわかる事典 「亀山藩〈丹波国〉」の解説

かめやまはん【亀山藩〈丹波国〉】

江戸時代丹波(たんば)国桑田郡亀山(現、京都府亀岡市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は邁訓堂、広徳館、鉄門館。当地は古代から丹波国の中心地で、山陰道の入り口を占めることから、藩主には譜代大名が交代であてられた。1609年(慶長(けいちょう)14)、下総(しもうさ)国山崎藩の岡部長盛(ながもり)が3万4000石で入り立藩。以後、松平(大給(おぎゅう))氏2代、菅沼氏2代、松平(藤井)氏3代、久世氏1代、井上氏1代、青山氏3代と、2万2000石~5万石で頻繁に交替した。次いで、1748年(寛延(かんえん)1)に松平(形原(かたのはら))信岑(のぶみね)が丹波国篠山(ささやま)藩から5万石で入って定着、以後明治維新まで松平氏8代が続いた。所領は飛び地が多く、しかも本拠の桑田郡内の総石高に占める亀山藩の石高は半分以下で、いくつかの藩や旗本知行地が入り組み、藩政に困難をきたした。石門(せきもん)心学石田梅岩(ばいがん)、医師の山脇東洋(やまわきとうよう)、画家の円山応挙(まるやまおうきょ)らが当藩から出ている。幕末戊辰(ぼしん)戦争では、山陰道鎮撫使(ちんぶし)の西園寺公望(さいおんじきんもち)に対し無血開城した。1869年(明治2)の版籍奉還(はんせきほうかん)の際、伊勢(いせ)国亀山藩との混同を避けるため「亀岡藩」と改称した。71年の廃藩置県により、亀岡県を経て京都府に編入された。

出典 講談社藩名・旧国名がわかる事典について 情報

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