江戸中期の画家。丹波(たんば)国桑田郡穴太(あのお)村(京都府亀岡(かめおか)市)の農家に、円山藤左衛門の次男として生まれる。幼名を岩次郎、のち名をてい、字(あざな)を仲均といった。仙嶺(せんれい)・夏雲などと号したが、1766年(明和3)34歳のとき、諱(いみな)を応挙、字を仲選、号を遷斎と改め、以後一貫して応挙の諱を用いた。幼いころより絵を好み、早くから京都に出て狩野探幽(かのうたんゆう)の流れをくむ鶴沢(つるさわ)派の画家石田幽汀(いしだゆうてい)(1721―1786)に入門し、本格的に絵を学んだ。幽汀は狩野派に土佐派を折衷した装飾的な画風をみせ、禁裏絵師となって法眼(ほうげん)に叙せられている。しかし応挙はその保守的な性格に飽き足らず、しだいに写生を基本とした写実的な画風に傾いていった。生活のための「眼鏡絵(めがねえ)」の制作で知った西洋画との出合いが、応挙の転換を促したと考えられる。
眼鏡絵とは、当時舶載されていた覗機械(のぞきからくり)に使用される絵のことで、反射鏡に凸レンズを組み合わせた装置にセットして覗(のぞ)かれる。その画法は、18世紀オランダ銅版画の画法に基づき、科学的な透視遠近法と写実的な陰影法を用いたものであったため、従来の画法を学んできた応挙には、ひときわ強烈な刺激であった。さらに、中国の宋元(そうげん)院体画の精緻(せいち)な描写や、清(しん)朝画家沈南蘋(しんなんぴん)の最新の写生画法にも多くの影響を受けたが、西洋画の徹底した写実技法や南蘋様式の濃密な彩色法をそのまま日本画の画面に転用せず、それぞれの絵画のもつ現実的な空間表現への関心や、モチーフの細密画法を自らの写生の重要な基本としながらも、より平明で穏やかな感覚の画面を追求した結果、独自の「付立(つけた)て」筆法を完成させた。こうした彼の画風は、大津の円満院(えんまんいん)門主祐常(ゆうじょう)の支持を受けるところとなり、30歳代には多くの作品の注文を受け、その庇護(ひご)のもとに画家として大きな成長を遂げることができた。祐常は1773年(安永2)に没したが、応挙は40歳代に入った安永(あんえい)年間(1772~1781)にもっとも充実した時代を迎え、以降独自の様式による作品を数多く制作している。代表作には『雨竹風竹図屏風(うちくふうちくずびょうぶ)』(京都・円光寺・重文)、『藤花図屏風』(東京・根津美術館・重文)、『雪松図』(国宝)、『四季草花図』(袋中庵)などがあり、これらの作品を通しても、個々のモチーフの写生的表現と、それらを包み込む背後の空間との知的な均衡関係を、応挙が長年にわたって研究し、築き上げてきたことが理解される。
応挙のもとにはすでに息子の応瑞(おうずい)(1766―1829)や長沢蘆雪(ながさわろせつ)、松村月渓(げっけい)(呉春(ごしゅん))、吉村孝敬(こうけい)(1769―1836)、駒井源琦(こまいげんき)(1747―1797)、山口素絢(そけん)(1759―1818)らの弟子が集まり一派を形成していたが、師のこうした緊密な画面はかならずしも十分な形では継承されなかった。だがその画派は円山派として、明治までの長い間、美術史上の重要な存在としてその地位を保ち、近代日本画の展開の基盤となった点で大いに注目評価されている。
[玉蟲玲子]
『佐々木丞平著『応挙写生画集』(1981・講談社)』▽『佐々木丞平編『花鳥画の世界6 江戸中期の花鳥1(京派の意匠)』(1981・学習研究社)』▽『山川武著『日本美術絵画全集22 応挙/呉春』(1977・集英社)』▽『河野元昭著『名宝日本の美術24 大雅・応挙』(1981・小学館)』
江戸中期の画家。円山派の創始者。通称は岩次郎,左源太,主水,字は仲均,仲選。号は初期に一嘯,夏雲,仙嶺を用いたが,1766年(明和3)名を氐(てい)から応挙(まさたか)に改めて以後,没年までこれを落款に用いた。丹波国穴太(あのう)村(現,京都府亀岡市)の農家に生まれる。15歳のころ京都へ出て,鶴沢派の画家石田幽汀(1721-86)に画技を学ぶ。生活のため眼鏡絵の制作に従事し,中国版眼鏡絵を模写,応用して京名所を描いた。これにより奥行き表現への関心を開かれたが,京名所眼鏡絵には機械的な透視遠近法を避けようとする意識もみられ,そのみごとな成果が1765年の《淀川両岸図巻》である。一方,同じ年に描かれた《雪松図》(東京国立博物館)では,個物に肉迫する写生的態度が看取され,ここに用いられた付立て(つけたて),片ぼかしなどの技法は,のちに整備されて円山派のお家芸となった。明和年間(1764-72)円満院の祐常門主の庇護を得て,個物に対する写生を熱心に行い,多くの写生帖(東京国立博物館ほか)を遺し,人体に対する即物的関心は,《難福図巻》(円満院)などに示されている。彼の写生に対する絶対的信頼は弟子奥文鳴の伝えるところであり,また最近紹介された祐常門主の手控帳《万誌》にもうかがわれる。写生の重要性を認識するようになった直接的契機として,当時の画壇を席巻していた沈銓(しんせん)(南蘋)様式,その写生図を模写するほど傾倒した渡辺始興,名号をならった銭選(舜挙)などが推定される。応挙は68年の《平安人物志》や《孔雀楼筆記》に登場しており,すでに新画風が社会的評価を得ていたことがわかる。
71年の《牡丹孔雀図》(円満院)に写生風装飾様式を完成したころから,東洋画の伝統と融和を計り,障屛画の世界に自己の装飾画様式を求めるようになった。76年(安永5)の《雨竹風竹図屛風》(円光寺)や《藤花図屛風》(根津美術館),87年(天明7)の大乗寺および金刀比羅宮表書院,翌年の金剛寺の襖絵群は,それぞれ大画面におけるすぐれた成果である。このころ豪商三井家や宮中関係の庇護を受けるようになったことも見逃せない。光格天皇即位大礼に臨み81年《牡丹孔雀図屛風》を揮毫,やがて妙法院宮真仁法親王とも親しくなった。82年の《平安人物志》画家部では筆頭に挙げられている。90年(寛政2)御所の造営に伴い一門を指揮して障壁画を制作。93年ころから老病にかかって視力も衰えたと伝えるが,再び金刀比羅宮表書院や大乗寺に健筆をふるった。とくに絶筆の《保津川図屛風》は応挙芸術の集大成で,モニュメンタルな様式にまで高められている。この間,多くの弟子を教育して円山派を組織した。応挙様式が真の写実主義ではなく,単なる折衷様式だとする非難もあるが,当時の画壇状況にあって,その写生主義がきわめて革新的であったことは疑いない。
→円山四条派
執筆者:河野 元昭
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1733.5.1~95.7.17
江戸中期の画家。円山派の始祖。初名は岩次郎,通称は主水(もんど),字は仲均・仲選。号ははじめ一嘯(いっしょう)・夏雲・仙嶺,1766年(明和3)に名を氐(てい)から応挙に改めて以後はこれを落款に用いた。丹波国穴太(あなお)村(現,京都府亀岡市)の農家に生まれる。京都で石田幽汀(ゆうてい)に画を学び,西洋画の遠近法・陰影法をとりいれた眼鏡絵(めがねえ)の制作に従事。近江国円満院の門主祐常の庇護(ひご)のもと,写生を重視しながら元・明の院体画風の花鳥画,南蘋(なんぴん)画なども学び,写実性と装飾性の調和した画風を確立した。多くの門人を擁し,彼らとともに描いた襖絵(ふすまえ)が香川県金刀比羅(ことひら)宮,兵庫県大乗寺などに残る。代表作「雪松図屏風」(国宝)「保津川図屏風」。
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…琴平[町]金毘羅信仰【鎌田 純一】
[建造物]
多くの建築があるが,このうち,表書院,四脚門,奥書院,旭社の4棟が重要文化財に指定されている。現在の表書院は客殿と称され,1654年(承応3)の建立になる入母屋造,檜皮葺き(ひわだぶき),正面に軒唐破風(のきからはふ)を付けた建物で,各室には円山応挙作の障壁画が多数ある。《瀑布及山水図》は1794年(寛政6),《竹林七賢図》《遊虎図》《遊鶴図》は1787年(天明7)の作である。…
…江戸中期に興った絵画の流派。円山応挙が開いた円山派と呉春が興した四条派の総称。18世紀中ごろ狩野派や土佐派をはじめとする伝統的画派は形式化に陥り,また琳派は尾形光琳のあと卓越した画家に恵まれず,創造性を枯渇させていた。…
※「円山応挙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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