江戸中期の医者。丹波(たんば)国亀山(かめやま)(京都府)の医家清水立安を父に生まれる。名は尚徳、字(あざな)は玄飛または子飛。初め移山、のち東洋と号した。1726年(享保11)京都、宮中の医官で法眼(ほうげん)の山脇玄修(げんしゅう)(1654―1727)の養子となり、その家督を継いで1729年には法眼に叙せられた。養父玄修について医を学んだが、これに飽き足らず、当時おこってきた古医方派の後藤艮山(こんざん)に師事、その学説を攻究し、実証精神を学び、古医方の大家と称されるに至った。1746年(延享3)唐の王燾(おうとう)の著書『外台秘要方(げだいひようほう)』40巻を復刻し、古医方家としての声価をいよいよ高めた。また人体の内部構造についての五臓六腑(ろっぷ)説に疑いをもち、先輩の話を聞いたり、内臓が人間に似ているといわれていたカワウソを自ら解剖したりしたが、疑問は解けなかった。1754年(宝暦4)京都の西の刑場で斬刑(ざんけい)に処せられた死体を官許を得て解剖、人体の内部構造を直接観察した。このときの記録が1759年に刊行された『蔵志(ぞうし)』で、この書は日本で公刊された最初の人体解剖記録である。
[大鳥蘭三郎]
江戸中期の医家。丹波国亀山の医家清水東軒の長子に生まれ,父の師匠筋に当たる京都の官医山脇玄修(道作)の養子となり,のち法眼の官位を得た。名は尚徳,字は玄飛また子樹,通称は道作,はじめ移山と号した。医を養父に学んだのち,古医方派の後藤艮山に学んで実証精神を身につけ,中国古典にいう五臓六腑説に疑問をもち,動物解剖を試みたが満足できずに年月を経過するばかりだった。その間,儒学の古学派荻生徂徠の学問に傾倒し,梁田蛻巌(やなだぜいがん)がそれを戒めたが,徂徠の高弟太宰春台,服部南郭と交わり徂徠学の感化を受け実証精神を深めた。晩年の50歳に至った宝暦4年(1754)閏2月7日,京都所司代の官許を得て斬罪の囚人男の死体を解剖,人体の内部構造を直接観察できる機会を得た。これが日本最初の医学的解剖で,その1ヵ月後日本最初の解剖慰霊祭を行ってその霊をなぐさめている。この記録をまとめて刊行したのが《蔵志》(1759)で,これが刺激となって各地で実証的解剖の機運が高まった。東洋は越前府中(現,福井県越前市)の奥村南山(良竹)に次男東門と高弟永富独嘯庵(ながとみどくしようあん)を派遣して吐方を学ばせ,当時の古医方派に欠ける汗・吐・下の三法の完備をはかり,古医方派の古典研究の良書に校訂復刻した《外台秘要方》を加えるなど古医方の大成を期し,不遇時代の吉益東洞を見いだして世に出し,古医方派四大家の一人と称せられた。
→古医方
執筆者:宗田 一
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(大塚恭男)
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1705.12.18~62.8.8
江戸中期の古方派の医師。名は尚徳(たかのり),字は玄飛,東洋は号。京都生れ。実父は丹波国亀山の医師清水立安(りゅうあん)。山脇玄脩の養子となり,1726年(享保11)家督を継ぐ。法眼(ほうげん)に叙され養寿院の院号をうけた。後藤艮山(こんざん)に古医方を学ぶ。中国古典を読み,ヘスリング著の解剖書をみて五臓六腑説に疑問をいだき,人体解剖の機会をうかがっていた。54年(宝暦4)閏2月7日,官許を得て京都六角獄舎内で男刑死体の解剖(観蔵)を行った。解剖実施をめぐり賛否両論がおきたが,5年後「蔵志」を刊行し,杉田玄白らの蘭学勃興の誘因となった。荻生徂徠とその一門の思想的影響が強い。「養寿院医則」を著し,46年(延享3)に「外台(げだい)秘要方」を翻刻した。門人に栗山孝庵・永富独嘯庵がいる。墓所は京都市の真宗院と誓願寺。
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[江戸時代]
江戸時代の医学の主流は,上述の新しく中国から受容した医学であったが,その中にあって,あえて古い医学,とくに《傷寒論》を基本にしようという医師たちが現れた。その先駆者は,永田徳本,名古屋玄医,後藤艮山(ごとうこんざん),山脇東洋,吉益東洞らである。彼らは古医方派とよばれる。…
…1世紀ころに出た《霊枢》(《黄帝内経》)には人体表面や内部の構造が解かれている。日本では京都の山脇東洋が1754年(宝暦4)の2月7日に最初の人体解剖を行い,五臓六腑説が正しいかどうかを確かめ,5年後に《蔵志》を出版した。ついで杉田玄白,前野良沢らは71年(明和8)3月4日に江戸で人体解剖を行い,ドイツ人クルムスの著,俗にいう《ターヘル・アナトミア》を翻訳し《解体新書》(1774)を出版した。…
…日本最初の実証的解剖書。古医方派の後藤艮山(こんざん)に学んだ京都の官医山脇東洋が,中国の内景(五臓六腑)説に疑問をもち,動物を解剖して実地に生物の内部構造を確かめたうえで,1754年(宝暦4)閏2月7日に京都所司代の官許を得て刑死体の解剖を行い,5年後の59年にこの解剖所見と解剖図を発表したのが本書で,付録に数編の東洋の医説や交友の書簡を収めている。解剖図は門人の浅沼佐盈(さえい)が描いた原図をもとに,木版で輪郭の線だけを彫って墨刷りし,内部は手彩色された。…
※「山脇東洋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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