二里岡遺跡(読み)にりこういせき(その他表記)Èr lǐ gāng yí zhǐ

改訂新版 世界大百科事典 「二里岡遺跡」の意味・わかりやすい解説

二里岡遺跡 (にりこういせき)
Èr lǐ gāng yí zhǐ

中国,河南省鄭州市二里岡で発見された殷代の標準遺跡と戦国時代の墓群。鄭州市の南東部,旧城より約1km離れた,東西長約1500m,南北幅約600m,高さ5~10mの丘の上に位置している。1950年に発見され,52年から55年に発掘調査が行われた。丘の西側では殷代文化層とその下層に竜山文化層が発見され,丘の東側では戦国時代の古墓群が発見されている。二里岡遺跡で発見された重要な殷代文化層は殷後期の地層の下面にあり,〈二里岡上層文化〉と〈二里岡下層文化〉の2時期に分けられている。安陽市小屯付近の殷墟を殷後期に比定するのに対し,二里岡上層・下層の文化層は殷中期に比定されている。二里岡遺跡で発見された殷代遺構には,灰坑,墓,建築址があり,遺物としては陶器石器,骨角器,青銅器の類がある。特に陶器は二里岡上層文化と二里岡下層文化の基準となる遺物で,鬲(れき),甗(げん),斝(か),缶(かん),甕,大口尊,尊,盆,豆(とう)などの器形が存在し,一部の陶器には青銅器と同じ文様である饕餮(とうてつ)文や雷文が見られる。また二里岡遺跡では212基の戦国墓が発掘されている。212基の墓のうち186基が竪穴土壙墓で,残りの26基が竪穴空心塼槨墓であった。副葬品の見られない墓も存在したが大部分の墓には副葬品が納められていた。副葬品には陶器,青銅器,鉄器,玉・石器などの器物が存在するが,特に陶器には,鼎(てい),豆,壺盤(ばん),匜(い)を中心とした礼制に基づく組合せが存在した。二里岡遺跡の戦国墓は,その地理的位置と年代から見て,戦国時代の韓国と魏国の墓が中心をなしていると推定される。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「二里岡遺跡」の意味・わかりやすい解説

二里岡遺跡
にりこういせき

中国、河南省鄭州(ていしゅう)市二里岡にある殷(いん)代の遺跡と戦国時代の墓群。二里岡は鄭州市の南東部に存在する東西長約1500メートル、南北幅約600メートル、高さ5~10メートルほどの土岡である。土岡の西側では殷代文化層と竜山文化層が発見され、土岡の東側で戦国時代の古墓が発見されている。発見された殷代文化層は二時期に分けられ、「二里岡上層文化」「二里岡下層文化」とよばれ、いずれも殷中期の標準資料となっている。殷代遺構には灰坑(かいこう)(地下貯蔵穴)、墓、建築址(し)があり、遺物には、土器、石器、骨角器、青銅器の類がある。また212基の戦国墓が発掘され、そのなかの186基が竪穴土壙墓(たてあなどこうぼ)で、残りの26基が竪穴空心塼槨墓(せんかくぼ)であった。副葬品には、陶器、青銅器、鉄器、玉石器があった。とくに陶器には、鼎(てい)、豆(とう)、壺(こ)、盤(ばん)、匜(い)、小壺、盒(ごう)、尊(そん)、甕(よう)、罐(かん)などの器形が存在し、戦国期の韓(かん)、魏(ぎ)における副葬陶器の標準資料となっている。

飯島武次]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の二里岡遺跡の言及

【鄭州】より

…古城址の調査とともに住居跡や墳墓,さらに城壁の外には銅器鋳造所,陶器・骨器製造所跡なども発見された。鄭州殷代故城の南東角外側に二里岡遺跡が存在する。この遺跡は,殷中期文化の標準遺跡で,出土した土器を基準として上層文化と下層文化に分けられ,下層は〈二里岡文化〉と称して,安陽の殷墟よりも古い殷代中期に属することが明らかになった。…

※「二里岡遺跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android