「吾妻鏡」寿永元年(一一八二)一一月一〇日条に、源頼朝が寵愛していた亀前という女性が、伏見冠者広綱の「飯嶋」の家に住んでいたとみえ、承元三年(一二〇九)五月二八日条には、小坪浦から鎌倉に帰ってくる途中の梶原家茂と
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
長野県南部,上伊那郡の町。人口9902(2010)。伊那盆地中央部,天竜川上流西岸に位置し,北は駒ヶ根市に接する。江戸時代は幕府の直轄地で,1677年(延宝5)から1867年(慶応3)までの190年間にわたって飯島陣屋が置かれ,廃藩置県後伊那県庁も置かれた。伊那県庁跡は県史跡。伊那往還の宿場町でもあり,1634年(寛永11)の家数は40軒で間口の広い町家が多かった。木曾山脈東部にあって町域の多くは山林・原野で占められるが,西部山地から東流して天竜川に注ぐ中田切川,与田切川沿いは緩傾斜の段丘面が広がり,米作をはじめ果樹,園芸,畜産などが行われ,〈伊那梨〉の名で知られる二十世紀梨の特産地である。町の中心部をJR飯田線,国道153号線が通じ,また中央自動車道の開通もあって,近年電気機械器具などの工場が進出し,工業が盛んになっている。西端にそびえる南駒ヶ岳(2841m)をはじめ,与田切渓谷,シオジ平自然園があり,中央アルプス県立公園に属している。
執筆者:萩原 毅
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長野県南部、上伊那郡(かみいなぐん)にある町。伊那盆地の中央部に位置する。1954年(昭和29)町制施行。1956年七久保(ななくぼ)村と合併。天竜川右岸段丘上にあり、JR飯田(いいだ)線が通る。町の中心部は、近世に三州街道が通り、その宿駅として発展し、現在は国道153号が通じている。段丘上の平坦(へいたん)面は稲作とナシやクリが栽培されている。1677年(延宝5)江戸幕府の直轄地を支配する陣屋が置かれ、明治初年まで伊那盆地の天領36か村を支配した。1868年(明治1)伊那県庁が置かれ県下全域の天領を支配し、1870年北部の天領が中野県の管轄となり、翌1871年伊那県は筑摩県(ちくまけん)に併合された。西方の越百(こすも)山山麓(ろく)の千人塚は、織田、武田の1000人に及ぶ戦死者を埋めたといわれ、いまは南アルプスを全望できるキャンプ場としてにぎわっている。面積86.96平方キロメートル、人口9004(2020)。
[小林寛義]
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