中国河南省安陽市小屯付近を中心として,洹河の南岸・北岸約24km2の範囲に散在する殷後期の遺跡群。殷王朝は,前期・中期・後期に時期区分され,殷後期は19代盤庚から30代帝辛(紂)の殷滅亡に至る,一説に273年間の年代が考えられている。小屯付近の遺跡を殷後期の遺跡として殷墟に比定する最大の根拠は,出土した甲骨文の研究によって,司馬遷の《史記》に記載された殷王室の世系と,甲骨文の世系がほぼ一致し,しかも甲骨の年代が,22代武丁から30代帝辛の時代にあたることが判明したことによっている。さらに甲骨文の卜辞には殷墟をさすと考えられる〈大邑商〉の記載がある。
中央研究院歴史語言研究所の傅斯年(ふしねん)は,甲骨出土地の確認を兼ねて,安陽の調査を董作賓に命じ,1928年秋,董作賓によって殷墟の第1次調査が開始され,第2次(1929春)調査からは,李済が加わった。第1次から第3次(1929秋)調査は,甲骨文と殷代の遺物を求めての調査で,第4次(1931春)から第9次(1934春)の調査では,集中的に遺構の発掘が行われている。この間の調査では,小屯村北側の地区において,長方形の宮殿址(甲四建築基址)や凹字形建築址(甲六建築基址)など,版築で築かれた宮殿や宗廟の基壇が発見されたほか,多くの竪穴住居址,工房,貯蔵穴も見いだされている。とくに第8次(1933秋)調査では,殷代の墓が初めて後岡において発見された。これは中字形を呈する南北38.6mの大規模なもので,墓壙には槨室,腰坑が存在し,殉葬された28個の人頭骨が出土している。南の墓道は坂道で,馬車が副葬され,北の墓道は階段になっていた。第10次(1934秋)から第12次(1935秋)の調査では,洹河北岸の西北岡侯家荘において,大型墓の発掘が行われている。西区において8基(未完墓1基を含む)の大型墓が,東区においては3基の大型墓が発見された。
そのなかの第1001号墓は,亜字形の墓壙を有し,墓道は東西南北の四方に1本ずつのびている。墓壙の上口の大きさは,南北18.9m,東西13.75m(耳室を除く)で,深さは10.5mであった。墓壙の底には木槨が存在し,中央に木棺が置かれていた。墓底には9ヵ所に腰坑が掘られ,それぞれ,兵士と犬が殉葬され,槨室の周囲の上層台上にも11人の殉葬が見られた。また南墓道には,8群,59人以上の殉葬が認められたほか,南,北,東,西の墓道中には,27群,73個の人頭骨が埋められていた。また,第1001号墓の東には付属する殉葬墓など31個の坑が発見され,それらには,合計68体余りの人骨が埋葬されていた。1001号墓は盗掘を受けていたが,副葬品として,鼎(てい),鬲(れき),爵(しやく),盉(か),觚(こ),瓿(ほう),鈴,鏃,戈,矛などの青銅器や,鼎,簋(き),罍(らい),尊(そん),豆(とう),缶,盤などの土器類,虎,梟,牛,亀,蛙などの石彫類,簋,尊などの石製容器類,鉞,戈,刀,柄形飾,琮(そう),璧,璜(こう),環などの玉石器,鏃,簪,簋,円筒形器などの骨角器・象牙器が出土している。侯家荘で発見された第1001号墓に代表される10基の大型墓は,いずれも多くの殉葬者を伴い,多くの副葬品が納められ,盤庚から帝辛までのいずれかの殷王,あるいは王一族の墓と考えられている。
第13次(1936春)から第15次(1937春)の調査は再び洹河南の小屯地区で行われ,それまでのトレンチ内調査から全面排土の調査に切り替えたため,無数の版築基壇,窖穴,墓,犠牲坑,水溝が発見されるようになった。ことに第13次調査では,第127坑から1万7096片という大量の亀甲(骨7片を含む)が出土し,その中には完全なものが300点近く含まれていた。これは,甲骨学史上,類を見ない最大の発見であった。その後,中華人民共和国が成立する1949年まで,殷墟の学術調査は中断した。解放後は,中国科学院考古研究所によって全面的な調査が再開されている。50年には武官村で大型墓が発掘され,さらに60年代までに,四盤磨村,大司空村,苗圃北地,張家墳,白家墳,梅園荘,孝民屯,北辛荘,范家荘,後岡,高楼荘,薛家荘など,小屯から若干離れた周辺諸遺跡の調査が積極的に行われた。70年代に入ると,小屯付近の調査が再開され,71年には,小屯の西方で21点の牛の肩甲骨を発見し,73年には,小屯の南方で7000点余りの甲骨を発掘している。76年7月に,小屯の北西で発掘された殷墟5号墓は,墓上に建築基壇を有し,墓壙内からは16体の殉葬者と6頭の犬が発見され,副葬品としては,440点余りの青銅器,590点余りの玉器,70点余りの石器などが出土した。青銅器に〈婦好〉あるいは〈司母辛〉の銘文を鋳出しているものがあり,22代武丁の配偶者,婦好の墓ではないかと考えられている。これは被葬者の判明した唯一の殷代墓で,また年代の上でも標準となりうる重要な遺構と言える。
小屯の北東には宮殿・宗廟址とされる版築基壇や,多数の竪穴,工房,墓,犠牲坑,車馬坑が存在し,後岡からは大型・小型の墓が発見されている。苗圃北地,孝民屯,薛家荘南地では鋳銅器工房が発見され,北辛荘,薛家荘南地では製骨器工房が発見されている。洹河北岸の侯家荘,武官村には大墓を中心に多数の中・小墓が存在し,大司空村では,墓と墓に伴う建築址が発見されている。このように殷墟の遺跡分布は,きわめて複雑であるが,その中心は,小屯北東の宮殿・宗廟の建築基壇群と,洹河北岸の侯家荘,武官村の大型墓群と見ることができる。一般に殷墟は,殷後期の盤庚から帝辛に至る殷の王都であったと考えられているが,殷中期の王都に比定される鄭州古城などに比べると,墓や犠牲坑が多く,宮殿址が少なく,城壁も発見されないなど,都市遺跡としての要素が乏しい。このことから,殷墟を墓地兼祭祀遺跡とする考えも有力である。
殷後期の土器に対しては,殷墟出土の土器を標準として,前期・後期の2時期,あるいは早・中・晩期の3時期,あるいはI・II・III・IVの4時期に分ける編年など,研究者によって,いくつかの時期区分が行われている。殷墟の年代については,炭素14法による測定の結果が参考になるが,殷墟5号墓は前1205±140年,また武官村大墓は前1085±100年との測定結果が出ている。盤庚から帝辛に至る殷後期の年代に関しては,暦法や《竹書紀年》等の古典文献から計算された各説があるが,前1400年ころから前1111年まで,あるいは前1300年から前1027年までとする説が有力である。
→殷
執筆者:飯島 武次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、河南(かなん/ホーナン)省安陽(あんよう/アンヤン)県小屯(しょうとん)村付近にある古代の殷王朝の都の遺跡。この遺跡から掘り出したカメの甲とウシの骨が、竜骨(おこりの妙薬とされていた)として北京(ペキン)の薬屋に売り出されていたが、1899年これを買った劉鶚(りゅうがく)が、この上に古代文字(甲骨(こうこつ)文字)を彫りつけてあるのを発見し、それから急に古代史学者の注意を集めた。羅振玉(らしんぎょく/ルオチェンユイ)、王国維(おうこくい/ワンクオウェイ)らの研究によって、この甲骨文字は、殷王朝の占い師が王家のために占った卜辞(ぼくじ)、つまり占いの文章であることがわかった。羅振玉は1915年自分で甲骨の出る小屯村を訪問し、試みに掘って甲骨のほか、青銅器、玉器などを手に入れた。
1928年には中華民国中央研究院歴史語言研究所が董作賓(とうさくひん/トンツオピン)、李済(りせい/リーチー)を中心に殷墟の発掘を行い、これから37年まで15回にわたる大発掘が続けられた。また革命後は、中国科学院考古研究所によって、50年から発掘が始められ、現在も続けられている。
殷墟のうち居住遺跡はおもに小屯村北方の洹河(えんが)に沿った台地に現れる。土壇を突き固めた上に宮殿の礎石が置かれている。土壇の周囲には多くの竪穴(たてあな)式の住居の遺跡がある。神を祀(まつ)る宗廟(そうびょう)や、帝王、王族の住居は地上にあったが、一般人民は地下式の竪穴に暮らしていた。
小屯の都市の郊外にはまた、陶器、骨器、銅器をつくる職人の工場と住居跡がたくさん発見されている。この居住遺跡に対して、洹水北の侯家荘(こうかそう)、大司空(だいしくう)村には、殷王朝の王墓とみられる多数の巨大な墓が地下10メートル以上の深さにつくられていた。王や王族の棺(かん)は多数の侍従や婢妾(ひしょう)の殉葬(じゅんそう)に取り囲まれている。墓室には青銅器、玉器などの宝物が入れられ、その豪華さは人々を驚かせた。あるものにはウマ、サル、ゾウなどの動物専用の坑(こう)がついている。おそらく生前に飼っていた動物まで葬られ、死後も生前と同じように生活ができるようにと考えた結果であろう。殷代後期の青銅器は、戈(か)のような武器よりはむしろ神を祀るための酒器、食器、楽器が主体を占めている。祖先を象徴する怪獣の不思議な文様が全面にすきまもなく彫り込まれ、その精巧さは世界中にその比をみないといわれる。殷の王や貴族たちは四頭立ての馬車に乗り、また戦争は車戦であった。武官村の大墓にはウマの骨を伴った馬車の遺物が掘り出された。宮殿のそばの竪穴などからは、大量の亀甲(きっこう)、牛骨が発掘された。これらには、殷の占い師が王朝の祖先を祀る儀式を占った文章が彫りつけられている。この甲骨文字の解読と王墓の遺物と相まって、殷王朝の王侯、貴族の生活ぶりが、だいたい想像することができるようになった。
第二次世界大戦後は、小屯村北部の宮殿地区よりも、むしろ周辺の地帯に調査が進められ、人民の住居、銅器や骨器の製造工場の遺跡と多数の中小の墳墓が発掘された。そのなかで、1976年宮殿遺跡の南西の殷墟5号墓の発見は学界に大きな衝撃を与える大事件であった。従来発掘された墓はほとんど盗掘されていたのに対して、この5号墓は完全に原状のまま保存されていたので、考古学的に貴重な資料を提供するものであった。壮麗、精巧を極めた468個の青銅器、755個の玉器をはじめ豊富な遺物群は学者たちの目を驚かせるものであったが、とくに青銅器のなかには、婦好(ふこう)という者が製造したという銘文を刻んだものが多く発見された。婦好は甲骨文によって殷墟第1期の武丁(ぶてい)王の王妃であることが知られているので、その製作年代は明確であり、この遺物群の研究に重要な基準を示すものであった。
これと並んで1971年には、小屯村の南部から4800余片の甲骨文字が発掘された。第4期の武乙王時代の甲骨を主体とし、各代のものを含んでいる。この出土状態の明らかな大量の甲骨文字の発見は、甲骨学者にとっても画期的な事件であり、今後の研究に大きな刺激を与えるであろう。
殷墟の青銅器は発達の頂点にあるもので、どうしてこのような青銅器が生まれたかという経路はわからなかった。革命後、中国全土にわたって発掘が進むにつれて、各地に殷代の遺跡が発見された。とくに殷代中期の河南省鄭州(ていしゅう/チョンチョウ)の遺跡から出た青銅器遺物のなかには、安陽の王墓から出たものより原始的なものを含んでおり、青銅器の発達の経路がわかるようになった。殷墟遺跡はその規模の大きいこと、そこから出土する豪華な青銅器などの美術品が優秀なことによって、メソポタミア、エジプトの神殿と並んで古代文化の宝庫の一つに数えられる。
[貝塚茂樹]
『貝塚茂樹著『古代殷帝国』(1957・みすず書房)』▽『白川静著『甲骨文の世界――古代殷王朝の構造』(平凡社・東洋文庫)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
河南省安陽市北西の小屯村を中心とした殷の都の遺址。殷王盤庚(ばんこう)以来滅亡までの都といわれる。ここで1899年甲骨文字が発見されて以来,世界の学界に注目され,1928~37年に15回の発掘が中央研究院でなされ,考古学上画期的成果をもたらした。50年以後も中国科学院による発掘が行われた。小屯村一帯は宮殿所在地で,周囲に住居址,墓が散在し,北方の侯家荘(こうかそう)には壮大な陵墓群があり,東方の後岡(こうこう)の調査で,新石器文化と殷文化との層位関係が確かめられた。出土の甲骨文にはこの地を商邑,大邑商,天邑商などと記す。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…この殷中期文化は北は河北省藁城台西村,南は湖北省黄陂盤竜城,江西省清江呉城へ広がっており,各地に硬陶のうえに灰釉をかけた青磁釉の萌芽を示す灰釉陶,台西村には漆器の盤,盒が出土している。 河南省安陽市北西2.5kmの殷墟の地は盤庚遷都以来,紂王滅亡まで殷後期の国都である。1928年以来,多数の建築基址,王侯貴族の陵墓や住居,工房址が調査されている。…
…それは彩色土器という特色のある土器をともなう文化で,当時すでに稲作の行われていたことも知られている。歴史時代に入ると,安陽の殷墟は最初の甲骨文字の出土地として有名で,殷代後期の都の所在地であった。今日の省都である鄭州はそれに先立つ殷代中期の代表的遺跡で,広大な城壁の存在が当時の都であったことを示している。…
※「殷墟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新