日本歴史地名大系 「五拾町村」の解説 五拾町村ごじつちようむら 福岡県:山門郡三橋町五拾町村[現在地名]三橋町五拾町白鳥(しらとり)村の南東にあり、北・東は瀬高上庄(せたかかみのしよう)村(現瀬高町)。南東境を矢部(やべ)川がほぼ南へ流れ、対岸は北高柳(きたたかやなぎ)村(現同上)。三潴(みづま)庄の鎮守であった玉垂(たまたれ)宮・大善(だいぜん)寺(現久留米市)の貞和三年(一三四七)九月日の仏神免田注文写(御船文書/南北朝遺文(九州編)二)によると、定額田として「五十町村」のうち一町が持禅坊に充てられている。 五拾町村ごじつちようむら 鹿児島県:曾於郡大隅町五拾町村[現在地名]大隅町岩川(いわがわ)前(まえ)川右岸の丘陵地帯から菱田(ひしだ)川右岸の台地にかけて形成された集落。中世には地内の菅牟田(すがむた)に手取(てとり)城が築かれた。末吉(すえよし)郷のうちで、西は恒吉(つねよし)郷大谷(おおたに)村。慶長(一五九六―一六一五)以前は飯田(いいだ)村・菅牟田村・馬場(ばば)村に分れていたという(「三国名勝図会」など)。当村は慶長年間一所持格家老職の伊勢貞昌に与えられて以来、伊勢家の私領であったが、末吉郷地頭の支配も受けた。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に末吉郷のうちとして馬場村高五八七石余・飯田村高一三八石余・菅牟田村高五六〇石余とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by