日本歴史地名大系 「五条天神社」の解説
五条天神社
ごじようてんじんしや
〔勧請〕
「宇治拾遺物語」巻二(柿の木に仏現ずる事)に「昔、延喜の御門の御時、五条の天神のあたりに、大なる柿の木の、実ならぬあり。その木のうへに、仏あらはれておはします。京中の人、こぞりて参りけり」とあり、この神社が平安初期には鎮座していたらしいことを証する。中世には相当広い境内地を占めたらしく、「拾芥抄」付載の東京図には五条大路南、西洞院大路東にその名があり、応仁の乱以後の景観を描くという中昔京師地図にも西洞院川の西側に大きく位置する。社伝によれば、延暦一三年(七九四)の平安京遷都の折、空海が勧請したという。「百錬抄」正治二年(一二〇〇)四月二五日条に「五条天神被奉授二階」とあり、「諸社根元記」には「延文五年五月十日藤原国定解状云、当社者高野之大師草創、去正治二年四月二十五日被授正五位下訖、永和四正一位、又云靭明神紫野今宮韓神五条天神同体也」と記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報