人見村(読み)ひとみむら

日本歴史地名大系 「人見村」の解説

人見村
ひとみむら

[現在地名]深谷市人見・櫛引くしびき

櫛挽くしびき台地の中央に位置し、東は折之口おりのくち村、北は上野台うわのだい村。深谷領に所属。北方にある仙元せんげん山が往来する人びとの目印とされ、人見山とよばれたのが村名の由来という(風土記稿)。中世の人見郷に比定される。猪俣党系図(諸家系図纂)によると、平安末期に河勾政基の子政経が人見六郎と号し、人見氏の祖となっている。「平家物語」巻九(越中前司最期)では、猪俣則綱が平盛俊を討取る際に人見四郎が駆付けている。建久元年(一一九〇)一一月七日の源頼朝上洛に人見小三郎行経が従っており(吾妻鏡)、承久の乱における承久三年(一二二一)六月一四日の山城宇治合戦では人見八郎が幕府方として活躍している(同書同月一八日条)。元弘三年(一三三三)二月二日人見四郎入道恩阿(光行)が河内赤坂あかさか(現大阪府千早赤阪村)攻めにおいて討死している(「太平記」巻六赤坂合戦事付人見本間抜懸事)。貞治二年(一三六三)五月一六日の足利基氏寄進状写(相州文書)によれば、鎌倉公方足利基氏は天下安全・武運長久のために「榛沢郡人見郷内安保余五郎跡」などを鎌倉法華堂に寄進している。

人見村
ひとみむら

[現在地名]君津市人見一―五丁目・人見

小糸こいと川河口右岸に位置し、北は江戸湾に面する干潟。「千学集抄」にみえる上総国人見は当地か。天正一九年(一五九一)検地があった(「周西郡人見村田畑野帳」守家文書)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳によると高三〇〇石。慶長一六年(一六一一)検地が行われた(「周西郡人見村検地帳」守家文書)。元和八年(一六二二)の年貢割付状(同文書)によれば旗本中野領、田方米納九石六斗九升余・畑方永納一一貫二二九文。正保二年(一六四五)の名請人は三〇人(「田畑名寄帳」同文書)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数一〇九、幕府領と旗本早野・小笠原の二家領。天保郷帳では高三五六石余。旧高旧領取調帳では上野前橋藩領と小笠原領のほか青蓮しようれん寺領五石。

幕末に上総海苔として江戸で名声を得た海苔養殖は、江戸の海苔仲買人近江屋甚兵衛によって文政四年(一八二一)始められた。

人見村
ひとみむら

[現在地名]松井田町人見

二軒在家にけんざいけ村の南東、碓氷川右岸の段丘上にある。段丘上を西から東へ貫流する柳瀬やなぎせ川は水量が少なく水田はわずかで、段丘上のほとんどは畑地帯。碓氷郡に属し、寛文郷帳では田方二七三石余・畑方七〇五石余。七一四石余が幕府領、二六〇石が旗本吉良領。江戸後期の御改革組合村高帳では高一千三三石余、うち七〇五石が吉井藩(家数一三〇)、旗本星倉領二〇九石余(家数二八)、同島田領一一八石余(家数一九)。当村は人見・上人見うわひとみ下人見しもひとみの三村に分れていたと考えられる。安永二年(一七七三)の吉井藩の領内村々高覚(本多文書)には上人見村高二四二石余、下人見村高四六三石余が載り、中山道坂本さかもと宿の天明八年(一七八八)増助郷等救済願(山田文書)には幕府領人見村がみえる。

人見村
ひとみむら

[現在地名]府中市若松町わかまつちよう三―五丁目・浅間町せんげんちよう四丁目・多磨町たまちよう四丁目・紅葉丘もみじがおか一―二丁目・白糸台しらいとだい一丁目、小金井市東町ひがしちよう一丁目

是政これまさ村の東にあり、東は上染屋かみそめや村、北は小金井村。集落は村の中央を東西に走る人見街道に沿って形成され、集落の北側に標高八〇メートルほどの浅間山(堂山・人見塚)がある。村名は南北朝時代に人見氏が居住したとの伝承に由来し、浅間山の中腹には人見四郎のものと伝える墓がある。「太平記」にみえる人見氏の本貫の地は現埼玉県深谷市であるが、現八王子市子安こやす神社の神櫃に、元徳二年(一三三〇)七月「多東郡住人人見四郎入道光行」が寄進した旨の銘があり(子安神社旧蔵台帳)、人見氏の一族が多摩郡東部にも居住していたことが推測される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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