日本歴史地名大系 「仏照寺」の解説 仏照寺ぶつしようじ 福井県:福井市旧足羽郡地区南江守村仏照寺[現在地名]福井市南江守町南江守(みなみえもり)の北西部にある。遍照山と号し、真宗仏光寺派。本尊阿弥陀如来。もと真宗高田派であったが、永禄五年(一五六二)真宗中野専照(なかのせんしよう)寺(現福井市)末に帰し、善照(ぜんしよう)寺と号した。天正一四年(一五八六)の当寺文書に「南江守善照寺」とある。その後仏光寺派に帰し、仏照寺と改号したらしい。朝倉氏時代から天正年間にかけての中世文書十数通を所蔵するが、大部分は印牧庵宛のものである。享保一一年(一七二六)の当寺由緒の中に「最前当寺ニ隠牧庵・上地(池カ)庵と申候而先祖庶子之者在之候、此両庵二ケ寺之塔頭ニ建置候、然而此二ケ寺之者医術相覚仕候ニ付」とあり、これらは朝倉氏時代の稀有な医学関係の文書である。 仏照寺ぶつしようじ 大阪府:茨木市目垣村仏照寺[現在地名]茨木市目垣一丁目安威(あい)川東岸にあり、浄土真宗本願寺派。光明山と号し本尊阿弥陀如来。寺伝によれば弘長二年(一二六二)勝光坊西順が創建。西順は俗名を佐々木俊綱といい近江長浜城主であったが、発心して嘉禄元年(一二二五)高野山金剛峯寺に入り、仁治二年(一二四一)親鸞の直弟子となったという。もと仏光寺派であったが、蓮如の門弟教光が再興、当寺を拠点として茨木地方に浄土真宗の教えが広まったといわれている。「存覚一期記」に覚如の子存覚が建武三年(一三三六)に下向したとある「溝杭辺」は当寺とみられている(茨木市史)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by