伊丹城跡・有岡城跡(読み)いたみじようあと・ありおかじようあと

日本歴史地名大系 「伊丹城跡・有岡城跡」の解説

伊丹城跡・有岡城跡
いたみじようあと・ありおかじようあと

[現在地名]伊丹市伊丹一―二丁目・宮ノ前三丁目

西摂平野の中央に位置し、山陽道の要衝である伊丹に所在した中世城郭跡。文和二年(一三五三)六月日の森本基長軍忠状写(彰考館蔵北河原森本文書)に「伊丹城」とみえ、同年一月一一日伊丹(森本)基長が押寄せた南朝方を撃退した。管領細川氏の内紛が畿内で激化する永正年間(一五〇四―二一)には当城が度々合戦の場となる。同八年八月一〇日河原林(瓦林)政頼の守る鷹尾たかお(現芦屋市)を落城させた細川澄元・赤松義村の連合軍が同月二四日まで包囲する。同一七年二月一七日には細川高国方が当城を捨て、伊丹但馬守・野間豊前守が城戸を閉ざして家々へ火をかけ天守で切腹した(細川両家記)。当城は「此数十年の間、諸侍土民以下煩としてこしらへたる」ものであったといい、「天守」の初見といわれる。永正一七年に実際に天守が存在したかははっきりしないが、大規模な城郭の造営城下の発展がうかがわれる。大永七年(一五二七)には森本新左衛門らが長期にわたって在城したこともあり(三月一七日「細川高国感状」北河原氏家蔵文書)、三好元長の兵が一ヵ月以上当城を攻囲するが落城しなかったという。しかし享禄二年(一五二九)一一月二一日には柳本賢治軍勢によって落城し、伊丹氏の当主伊丹元扶はじめ三〇余人が討死する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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