伊佐津村(読み)いさづむら

日本歴史地名大系 「伊佐津村」の解説

伊佐津村
いさづむら

[現在地名]舞鶴市字伊佐津

伊佐津川西岸に位置し、境谷さかいだに村に対する。京極高知の時、池内いけうち真倉まぐら両川尻が改修、合流されたが、新しい伊佐津川を東の境谷村の中を貫流させたため川の西岸に新しい耕地ができ、境谷村から分村し、これを伊佐津村と名付けたという。

慶長検地郷村帳に高四一〇・八一石「伊佐津村」とみえる。土目録でもほぼ同高で、うち田方三七二石余、畑方二七石余。

池内川・伊佐津川の上流では古来紙漉が行われていたが、田辺たなべ城の築城後、城主奨励と職人の移住によって、この村の紙漉は盛大になった。旧語集に、

<資料は省略されています>

とあり、土目録に記す諸運上のうちに、奉書運上銀一四四匁八分が記される。紙の生産は田辺藩中最も多かった。


伊佐津村
いさつむら

[現在地名]新利根村伊佐津

小野おの川右岸の台地上にあり、北東寺内てらうち村。「土岐原史記」によれば、永正年間(一五〇四―二一)から金剛寺甲斐守が竹内たけのうち(伊佐津)城を築いて支配したが、天文一一年(一五四二)江戸崎城(現江戸崎町)城主土岐治頼に攻められ、滅亡する。江戸時代は天領で、元禄郷帳の村高は八五三石余、幕末の村高は八五七石余(各村旧高簿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

2022年度から実施されている高校の現行学習指導要領で必修となった科目。実社会や実生活で必要となる国語力の育成を狙いとし、「話す・聞く」「書く」「読む」の3領域で思考力や表現力を育てる。教科書作りの...

現代の国語の用語解説を読む