伊原宇三郎(読み)イハラ ウサブロウ

20世紀日本人名事典 「伊原宇三郎」の解説

伊原 宇三郎
イハラ ウサブロウ

大正・昭和期の洋画家 日本美術家連盟名誉会員。



生年
明治27(1894)年10月26日

没年
昭和51(1976)年1月5日

出生地
徳島県徳島市

学歴〔年〕
東京美術学校(現・東京芸大)西洋画科〔大正10年〕卒

主な受賞名〔年〕
昭和洋画奨励賞〔昭和4年〕,帝展特選〔昭和5年 7年〕,フランス芸術文化勲章オフィシエ章〔昭和35年〕,勲三等瑞宝章〔昭和41年〕

経歴
藤島教室に学び、美校在学中の大正9年、第2回帝展に「明装」を初出品。13年渡欧、パリ滞在。昭和4年帝展で「椅子によれる」が特選。5年には滞欧作約60点を1930年協会展に特別陳列、同年帝展で「二人」が特選、7年の帝展でも「榻上二裸婦」が特選となり、8年帝展無鑑査、9年同審査員。以後文展、日展の審査員を何度も務めた。また7〜19年東京美術学校助教授を務めた。戦時中に戦争記録画も制作した。戦後24年日本美術家連盟結成で初代委員長。同年の日本著作権協議会設立、25年からの国立近代美術館設置運動、28年国際造形芸術連盟日本委員会の設立、32年国際美術協議会設立、33年美術家会館建設委員会の設立など美術家の権益擁護のため尽力した。49年には日本美術家連盟名誉会員に推された。著書に「ピカソ」「ドラン」「キュビスム」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「伊原宇三郎」の意味・わかりやすい解説

伊原宇三郎【いはらうさぶろう】

洋画家。徳島市生れ。東京美術学校卒業後,フランスに留学,帰国後無所属で帝展などに出品。母校教授,日展理事などを務める。ピカソ新古典主義影響を受けた初期作品は,単純な色彩で重厚な量感を見せている。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊原宇三郎」の解説

伊原宇三郎 いはら-うさぶろう

1894-1976 大正-昭和時代の洋画家。
明治27年10月26日生まれ。藤島武二に師事し,東京美術学校(現東京芸大)在学中に帝展に入選した。大正14年由起しげ子と結婚(のち離婚)し,フランスに留学。昭和7年から母校の助教授をつとめる。24年日本美術家連盟を創立し委員長となる。昭和51年1月5日死去。81歳。徳島県出身。作品に「椅子によれる」「二人」など。

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367日誕生日大事典 「伊原宇三郎」の解説

伊原 宇三郎 (いはら うさぶろう)

生年月日:1894年10月26日
大正時代;昭和時代の洋画家。東京美術学校助教授;日本美術家連盟委員長
1976年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の伊原宇三郎の言及

【明治・大正時代美術】より

…里見勝蔵(1895‐1981),前田寛治,佐伯祐三らがそうであり,彼らは木下孝則(1895‐1973),小島善太郎(1892‐1984)と一九三〇年協会を結成する。26年の第1回展には,古賀春江,野口弥太郎(1899‐1976),林武,林重義(1896‐1944),川口軌外(きがい)(1892‐1966),木下義謙(1898‐1996),宮坂勝(1895‐1953),中野和高(1896‐1965),中山巍(たかし)(1893‐1978),伊原宇三郎(1894‐1976),福沢一郎,長谷川利行,靉光ら,昭和期に活躍する青年画家が多く集まった。しかし一九三〇年協会は第5回展をもって終わり,その継続ともいえる独立美術協会が結成されて,31年第1回展が開かれる。…

※「伊原宇三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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