フランスの画家。6月10日パリ郊外シャトゥーに生まれる。1898~99年、パリのアカデミー・カリエールに通い、ここでマチスを知る。また1900年に同じ地区に住むブラマンクと偶然出会い、彼とアトリエを共有して制作に励む。2人はシャトゥー派ともよばれ、フォービスムの重要な母体の一つとなった。01年末から04年にかけて兵役のために制作は一時頓挫(とんざ)するが、帰還後は、シャトゥー派とマチスらとの交流の深まりとともに、急速に作風を進展させた。近年の研究では、マチスに先んじてドランが、印象派以後の種々の前衛的手法を首尾よく混合し、いち早くフォービスムのスタイルに到達したとされる。その後マチスの影響でいったん新印象主義の点描画法に深入りしたものの、それによって色彩に対するよりいっそう明晰(めいせき)な感覚を獲得したドランは、05年の夏、南仏の港町コリウールでマチスとともに過ごしてから、鮮烈な色彩を大胆に用いるフォーブの中心的な画家の1人となる。同年秋のフォービスムのマニフェスト(宣言)ともいうべきサロン・ドートンヌの第七室に彼の作品も展示された。このころの代表作に『テムズ川の落日』(1906)などがある。
しかし2、3年後、セザンヌの厳しい構築に対する傾倒や、ピカソ、ブラックらとの交友によってキュビスムに接近、主要な関心をフォルムと構成の問題に向け、一方、鮮烈な色彩は抑制されて重厚なものになる。だが彼は、キュビスムを極端に推し進めてフォルムの分解にまで至ることはなかった。その後、初期イタリア・ルネサンスの絵画やゴシック芸術、あるいはフランスの過去の画家たちの作風などに傾倒しながら独自の探究を続け、かつてのフォーブ時代の華やかさとは無縁の落ち着いた画風によって、古典的伝統を現代に引き継ぐ新古典主義者とでもいうべき立場を確立した。54年9月2日シャンブールシーで没。
[大森達次]
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フランスの画家。パリ郊外のシャトゥーChatou生れ。1898年からアカデミー・カリエールで学ぶが,そこでマティスと出会い影響を受ける。マティスとともに,セザンヌ芸術の重要性を最も早く認識した画家で,1903-14年ごろの作品にはその感化が各所にうかがえる。しかし,05-06年には,ブラマンクとともに最も鮮烈な色彩を用いる典型的なフォービスムの画家であった。07年以降はセザンヌ=初期キュビスム的な形態重視の傾向に転じ,色彩も重厚なものとなる。第1次大戦後は,主題,様式ともにより伝統的なものに回帰していった。
執筆者:八重樫 春樹
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1880~1954
フランスの画家。初めマティスらとフォーヴィズムの強烈な絵を描いたが,立体派の理論を述べたり,古典作品を研究したのち,暗色を基調とする思索的で簡明な作風となり,風景,人物,静物を描いた。作品に「森」「二人の姉妹」など。
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…〈野獣派〉〈野獣主義〉と訳されることもある。1905年サロン・ドートンヌの第7室に展示されたフランドランJ.Flandrin,マルケ,ルオーたちの作品に囲まれるようにしてマルクA.Marqueのイタリア風のトルソーが置かれていたのを,美術批評家ボークセルLouis Vauxcellesが評して〈野獣(フォーブ)の檻のなかのドナテロ〉といったことから,〈フォービスム〉の名称が生まれる。もっとも,〈フォーブ〉の形容そのものはボークセル以前にすでに用いられていたようである。…
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