18世紀中ごろから19世紀初期にかけてのヨーロッパの建築思潮をいう。この時期に,考古学,啓蒙主義哲学を背景に古典古代の建築を模範とした新しい造形規範が形成された。新古典主義の始まりは,1750年代におけるバロック,ロココ趣味の流行に対する反発にあり,より確固とした規範を求めて,古代,とくにギリシア建築への憧憬へと至る。遺跡の発掘,実測を通して,スチュアートJ.Stuart,レベットN.Revettによる《アテネの古代遺物》(1757以降)などが出版され,正確な考古学的知識が急速に普及した。建築美学では古代美術史家ウィンケルマンらの唱える単純さや〈崇高〉の美学が影響を及ぼし,またピラネージによる古代ローマ建築遺跡の風景画(版画)が巨大趣味で魔術的な新しい美意識を覚醒させた。理論面でも,ロドリC.Lodoli,ロージエM.A.Laugierらが啓蒙主義哲学を背景とする合理的,機能的な建築理論を提示した。またイギリスでのパラディオ主義の伝統が古典主義的建築語彙の普及に貢献するなど,ヨーロッパ各国の建築思潮が融合し,普遍的な造形方法を形成した。建築様式ではとくに,ギリシア神殿の原始的なドリス式オーダーが好まれ,径が太く,素朴な円柱や重々しい比例感などが模倣された。この傾向は抽象的造形理念へと先鋭化し,18世紀末には立方体,ピラミッド形(正四角錐),球体といった純粋幾何学形態を用いた造形が見られ,ルドゥー,ブーレー,ジリー,ソーンらの〈大革命建築〉様式に結晶した。理想主義的段階が過ぎた後はデュランJean Nicolas Louis Durand(1760-1834)らが合理的技術としての幾何学システムによる設計方法を生み,他方,より正確な知識による様式模倣からグリーク・リバイバル(ギリシア復興)様式が形成され,広く普及した。新古典主義はシンケルに代表されるように,同時期のロマン主義と対立,また融合し合い,〈ロマンティック・クラシシズム〉として呼名される場合がある。また,新古典主義建築はヨーロッパと同じころ,アメリカでも見られた。
執筆者:杉本 俊多
建築と並んで,絵画,彫刻の分野においても,1760年ころから19世紀の初頭にかけて,古代芸術に対する新たな関心に支えられた厳しく明晰な新古典主義様式がヨーロッパ全体をふうびした。その根は,建築の場合と同じく,一つは1730年代から始まったヘルクラネウムやポンペイの発掘による考古学的知識の増大とそれに触発された古代への強い関心であり,もう一つはロココの華麗な装飾趣味と官能的快楽主義に対する反発である。理論的には,ギリシア芸術を最高の価値とするウィンケルマンの〈理想美〉の美学と,それを受け継いだフランスのカトルメール・ド・カンシーA.C.Quatremère de Quincy,ドイツのメングスの思想が強い影響を及ぼした。
新古典主義絵画は,古代の遺品を数多く残しているローマでまず始まった。とくに,アメリカから来たB.ウェスト,イギリス(スコットランド)のハミルトンGavin Hamilton(1723-98)など,ロココの影響を受けることの少なかったアングロ・サクソンの画家たちは,古代彫刻を熱心に研究し,ローマ史の主題を好んで取り上げることによって,新古典主義の基盤を準備した。一方フランスでは,古代作品に霊感を求めたビアンJoseph-Marie Vien(1716-1809)や,グルーズの教訓画が新古典主義への強い傾斜を示し,スイスでは女流画家カウフマンが活躍した。一般に,このころ,ロココの官能性に対する反動として,英雄の死,自己犠牲,博愛主義など,禁欲的,悲劇的テーマが好まれたことは注目に値する。また,イギリスで活躍したスイス人フュッスリ,デンマークのアビルゴールのように,ロマン派的気質を濃厚に持った画家たちが登場していることは,新古典主義がロマン主義と共通の根を持っていることを示している。
しかし,新古典主義の最も代表的芸術家は,絵画ではダビッド,彫刻ではカノーバである。ローマ滞在中の《ホラティウス兄弟の誓い》で名声を確立したダビッドは,革命期(《マラの死》《サビニの女たち》等),帝政期(《ナポレオンの戴冠式》)を通じて活躍し,多くの弟子たちを育てあげた。その弟子のなかでは,ジロデ・トリオゾン,ジェラール,そしてとくにアングルが重要である。アングルは,ロマン派的情熱の持主であったにもかかわらず,その卓越したデッサン,平面化された構成,緻密な写実性と理想的世界の追究(《ホメロス礼讃》《泉》等)により,ダビッドの後継者として,19世紀後半まで新古典主義の中心であった。新古典主義は,ロマン主義,写実主義,印象主義などの新しい動きが登場した時代にあっても,アカデミズムと結びついて,官展(サロン)派の美学としての役割を果たした。
執筆者:高階 秀爾
広義には第1次・第2次世界大戦間の音楽全体のスタイルをさし,狭義にはストラビンスキーの両大戦間の音楽やフランス六人組(ミヨー,オネゲル,プーランク,G.オーリック,L.E.デュレー,G.タイユフェール)の音楽をさす。第1次大戦後,後期ロマン派やその極限である表現主義の主観的な感情過多や,印象主義などの模糊とした音楽性や形式への反動として,旋律や形式の明晰な音楽が要求された。これは第1次大戦というヨーロッパが体験した大破壊の後,秩序の回復を求めた社会状況と無関係ではない。それに際し,古い秩序を新たに回復しようとした人たちと,新しい秩序を作ろうとした人たちとに分かれたが,数としては前者のほうが多い。前者の代表的な例はストラビンスキーやフランス六人組,ソ連の社会主義リアリズムによる音楽がある。その最初の例はストラビンスキーのバレエ曲《兵士の物語》《プルチネッラ》(1920)などでフランス六人組はその方法をさらに拡大した。彼らが回復しようとしたものは古典派音楽やバッハ,ヘンデル,ラモーなど後期バロックの諸形式であるが,和声的には調性を保ちながらも不協和音を巧みに用いて音響を豊かにした。ドイツではブゾーニが早くから新古典的な理念を主張しており,第1次大戦後はヒンデミットやK.ワイルがその代表となる。彼らは〈新即物主義〉とも呼ばれ,とくにヒンデミットは〈実用音楽〉という考えを唱えた。社会主義リアリズムでは古典派,ロマン派の音楽がその理想とされ,プロコフィエフやショスタコービチがその政策に従った。
一方,新しい秩序を作ろうとした人たちにはシェーンベルク(十二音音楽)とその弟子たちや,バルトーク,メシアンなどがおり,彼らはそれぞれ独自の新しい作曲のシステムを考案した。しかし全体として形式性や主題性が明確となり,新・旧を問わずともに秩序性を求めた点で共通しており,両大戦間全体を通じて新古典主義という共通したスタイルを認めることができる。
執筆者:佐野 光司
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1900年前後のドイツ文学思潮。当時主流であった自然主義やホフマンスタールなどの新ロマン主義を否定する立場からシラーやヘッベルを規範として古典的な形式と高貴な倫理性を要請した。とくに戯曲において、人間の自由意志による決断と論理的構成の必要性を強調し、反自然主義的姿勢を明確にした。理論的著作としては、エルンストの『形式への道』(1906)とルブリンスキーの『現代文学の終局』(1908)が代表的な作品。しかしながら理論が先行し、創作の面ではみるべき成果に乏しい。新古典主義を標榜(ひょうぼう)するエルンストやショルツの数多い戯曲にしても、今日では上演されることがない。これらの作家が忘却されるとともに、この思潮も実質的な意義を失い、文学史に名をとどめるにすぎなくなっている。傍流ではあるが、シュミットボンやビンディングのほうが、新古典主義の名称にふさわしい佳作を残している。
[丸山 匠]
『山岸光宜著『現代の独逸戯曲 第2』(1927・大村書店)』
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…これがさらにビニョーラにより洗練を加えられ,パラディオの《建築四書》(1570)にいたって実用的な原理として定着した。これ以後オーダーは,古典的建築教程の中心テーマとして権威づけられていくが,18世紀の新古典主義の理論家たちは,ローマ的なピラスターのような用法を排し,古代ギリシア風の構造的実体を伴う円柱形式の復活を主張し,古代ギリシアの神殿,なかでもアテナイのパルテノンをその最も完全な例として賛美し,近代の建築美学に大きな影響を与えた。建築教程の中心としてのオーダーは,19世紀半ばのゴシック・リバイバルから20世紀の近代建築運動に至る間に否定されたが,建築全体の比例調和の意味でのオーダーは生き残り,近代主義の美学の中心となっていた。…
…ギリシア復興(様式)。18世紀中葉以降の新古典主義建築の中に主として見られるギリシア様式再発見と応用の動きを指していう。スチュアートJ.StuartとレベットN.Revettが現地調査にもとづいて1762年に出版した《アテネの古代遺物》が,この機運の出発点となった。…
…このようにしてヨーロッパの伝統的な調性と拍節構造の二つを磁極とする閉ざされた音楽的磁場は,開かれた音楽的時間と音楽的空間に変貌したのである。
[第2期 〈新古典主義〉音楽運動]
両大戦間の第2期の音楽は,第1期の創作活動に対するアンチ・テーゼとして展開され,ヨーロッパの古典主義の音楽を再評価しようとする〈新古典主義〉の音楽運動が中心となった。激しい表出力をもつ三大バレエ音楽を作曲したストラビンスキーは,1920年に,バロック時代の作曲家ペルゴレーシほかの音楽の借用と引用による《プルチネラ》を発表し,27年12月《ザ・ドミナント》誌で,〈古典主義への回帰〉と〈新古典主義の確立〉を明確に主張した。…
…このロココ美術は,もはやそれ自身のなかには次代への発展のエネルギーをもっていなかった。18世紀末フランスに革命が起こり,ナポレオンが出現すると,ヨーロッパの美術には堅実素朴な市民階級の美意識に基礎を置く古典主義が再興する(新古典主義)。ウィンケルマンの《古代美術史》(1764)はこの風潮に思想的指針を与えた。…
…ロココ絵画の精髄といわれるワトーのあのどこか哀愁をたたえた繊細な抒情性も,身近な日常の事物にひそむ存在の不思議を堅固な造形性のなかに表現したシャルダンの静物画も,そのような背景のなかから生まれてきたものである。それと同時に,すでに1730年代から始まったヘルクラネウム,次いでポンペイの発掘は,18世紀後半にロココ趣味への反動として登場する新古典主義への重要な契機となった。事実,革命の時代に強烈な共和主義者として,そして帝政時代にナポレオンの宮廷画家として大きな業績をあげたダビッドの新古典主義は,すでに革命以前の時期に形成されていたのである。…
※「新古典主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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