伊庭村(読み)いばむら

日本歴史地名大系 「伊庭村」の解説

伊庭村
いばむら

[現在地名]能登川町伊庭・能登川・きぬがさ

現町域の南西部に位置し、西は大中だいなかの湖が広がり、南西方には中洲で分けられた小中しようなかの湖がある。小中の湖三湖のうち当村寄りの湖を伊庭内湖とよぶ。中世は伊庭庄の内。守護六角氏の守護代で一六世紀初めの伊庭の乱で知られる伊庭氏の本貫地であった。伊庭城を拠点とした。また伊庭庄の湖上への窓口であったとみられる伊庭湊(能登川湊)近世にも湖東の湖上交通の有力な拠点の一つであり、大中の湖も当時は伊庭内湖と称していたという。近世の伊庭村は各郷帳ともに能登川村安楽寺あんらくじ村・須田すだ村を含めて記載され、この三ヵ村は当村の枝郷として位置づけられる。また天保期(一八三〇―四四)に開発された伊庭地先の梅安うめやす新田、須田地先の山下やました新田も当村の内。朝鮮人街道(下街道)が能登川集落を通る。

寛永石高帳に村名がみえ、高二千石で幕府領。元禄一一年(一六九八)旗本三枝領となり、元禄郷帳では高二千五八八石余。以後同領として幕末に至るが、天保郷帳では二千七八七石余とあり、梅安・山下両新田分などが加えられたものであろう。三枝氏は元禄一一年駿河国より采地を移し、神崎蒲生がもう野洲やすの三郡に七千石を得た。宝永七年(一七一〇)武蔵国に五〇〇石を加えられ、七代将軍徳川家継の側近となり、菊の間詰を許された。陣屋を伊庭に置き、幕末には陣屋詰一〇人の家臣がいた。明治二年(一八六九)采邑を奉還し、最後の当主三枝守道は伊庭陣屋に帰り、子守経は同一九年北須田で没している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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