伊庭庄(読み)いばのしよう

日本歴史地名大系 「伊庭庄」の解説

伊庭庄
いばのしよう

きぬがさ山山系の西、旧大中だいなかの湖に面する伊庭を中心として展開した神崎郡内の庄園。本家は京都成勝じようしよう(現京都市左京区)、領家は九条家など。史料上は伊波・伊場とも。八王子法橋伝来文書などの売券・寄進状類で判明する庄内田畠は、神崎郡条里の九条一〇里・一一里、一〇条九―一一里、一一条九里の範囲にほぼ含まれ、御神田・梅立・北郷坂・道金屋敷・無川・野神・東山田などの小字名も確認される。「神崎郡志稿」は江戸期の伊庭村内であった能登川安楽寺あんらくじ須田すだをはじめ、猪子いのこはやし山路やまじ佐野さの垣見かきみ躰光寺たいこうじ小川おがわの各村も庄域とする。安楽寺・須田の東部丘陵が現在の能登川町と五個荘ごかしよう町の町境をなす繖山山系の伊庭山で、安土城の石垣築造にはこの「伊場山」からも大石が引下ろされたという(「信長公記」天正四年四月一日条)。中世の伊庭は六角氏重臣で守護代にもなった伊庭氏の本貫地として知られ、伊庭城はその拠点となった。

永治二年(一一四二)四月三日の散位源行真申詞記(「愚昧記」仁安三年一一月巻裏文書)に「成勝寺御領伊波庄」とみえ、佐々木ささき庄辺りに本拠を有した源新六郎友員殺害の嫌疑をかけられた叔父源行真が身の潔白を証明するため、友員が連れていた「伊波乃源太」という従者が傷をうけたものの当庄に住する清(清原)追捕使安貞の所で存命しているらしいから、召喚してほしいと主張している。六勝寺の一つ成勝寺は崇徳天皇の御願寺として保延五年(一一三九)に落慶供養が行われているが、当庄はこの建立に伴う寄進によるものか。保元の乱の直前、崇徳上皇が源為義にこの庄地を与えたと伝えるが(保元物語)、事実としても預所職ないしは下司職の付与と考えるべきであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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